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戦国北条氏・五代

2020.07.30(08:00) 314

**戦国大名・北条一族

**関東制覇を目前に北条氏滅亡


   秀吉は、氏直が当主であったものの、家康の娘婿である事から助命し、代わりに最高実力者の父氏政、御一家衆を代表して氏照、家臣を代表して松田憲秀・大道寺政繁を切腹させることで、帳尻を合わせた。

  その後、小田原城の接収が開始され、家康の軍勢が入場し、家康自身も入城した。 この後、北条領国は家康に継承されることになった。  氏政が家康の陣所に移り、氏政の助命も嘆願されたが、実現されず、氏政・氏照は切腹を遂げた。

   助命された氏直は、高野山に追放される事が決まり、戦国大名北条氏は滅亡を遂げた。  そしてそれは同時に、羽柴秀吉による天下統一の完成でもあった。 北条氏は、初代宗瑞が戦国の幕開けに相応しく登場してきたのに対応する様に、最後は戦国の幕引きに合わせて、その歴史を閉じることになった。 いわば北条氏は、戦国時代の幕開けと幕引きの両方に密接に関わっていたのであり、また戦国時代を象徴する戦国大名であったと言えよう。

  高野山に追放となった氏直は、天正十九年(1591)、舅の家康らを通じて秀吉への身上の取り成しをを求め,赦免がなされ、大阪への移住を命ぜられた。  そして、大阪城に出仕し、秀吉に拝謁して、正式に秀吉から赦免され、あわせて知行一万石を拝領した。
 氏直は、ここに秀吉の旗本家臣として再出発を果たしのである。  拝謁の際には、翌年に予定されている朝鮮への従軍を命じられている。  しかし、氏直はその後疱瘡を患い、そのまま回復する事無く死去した。享年30歳。  嗣子が無かったため、叔父氏規の嫡子氏盛による家名相続が認められた。
五代氏直代

戦国大名北条氏五代終わり

     ● 最後まで愛読いただき有難う御座います。 昨年暮れにスタートしました、今回のテーマ「戦国大名北条氏・五代」は、もう少しスピーディーな展開でレポートする予定でしたが、種々・色々のエピソードはなかなか捨てがたく、中々まとまりのない展開で、長くなりました。 北条氏は徳川氏との関係で家名は存続しました事は、最終回でレポートしました。
 次回からは、「戦国大名北条氏」が拠点とした小田原城は秀吉によって無血開城しました。 城は無傷で残ったのです。 
 そこで、その辺りのレポートを予定(8月)しています。

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戦国北条氏・五代

2020.07.25(09:00) 313

**戦国大名・北条一族

**運命の小田原合戦

   北条氏は、十二月後半から、領国内の家臣・他国衆を小田原城に入城させ、或は各地に配備して、防衛体制の整備が完了した。  秀吉軍は、天正十八年(1590)2月から各大名が出陣、3月に入って秀吉本隊が京都を出陣した。   同じ頃、伊豆三島及び伊豆・駿河国境の喜瀬川で、徳川家康・織田信雄・羽柴秀次らとの間で戦闘が行われ、小田原合戦の幕が切って降ろされた。

   三月下旬に秀吉が駿河三枚橋城(沼津市)に着陣すると、羽柴軍による本格的な侵攻が開始され、山中城が即日に落城した。  家康軍の先陣が箱根に進み、翌日には秀吉も箱根峠に進んだ。  
  さらに、家康軍は小田原城付近まで進撃し、秀吉は湯本の早雲寺に本陣を据えた。 そして、同月中旬頃には小田原城包囲陣が完成し、小田原城攻防戦は、籠城戦となった。  

   他方、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北陸道軍は、三月ろに信濃・上野国境の碓氷峠に達し、北条軍と戦闘があり、この方面でも合戦が開始された。 また、浅野長吉や家康配下の軍勢からなる東海道軍の別働隊が小田原から東進して、相模玉縄城(鎌倉市)、武蔵江戸城(千代田区)、下総・上総の諸城を攻略し、さらに武蔵に転進した。 

   そして、六月下旬までには、武蔵の北条方諸城は攻略され、さらには韮山城、津久井城も開城して、北条方の需要拠点は軒並み攻略され、本城小田原城のみが残された。
  小田原城は、四月中旬から籠城を強いられていた。 秀吉はそれ以前に向かい城として石垣山城(小田原市)の構築を進め、五月中旬には石垣が竣工している。 その後、六月下旬には建築物も完成をみて、同地に本陣を構えた。

*石橋山城・・・・羽柴秀吉一夜城

   一方の北条氏は、周辺の戦況も悪化の一方を辿っていたため、氏直は羽柴方との和睦を本格的に模索しはじめた。  仲介は徳川家康と織田信雄が務めた。   信雄の家臣岡本利世が、氏直側近の垪和豊繁の手引きによって城内に入り、氏直と対面している。  その後、信雄の家臣滝川雄利と秀吉の家臣黒田孝高が使者として城内に派遣された。
 その後、氏直は仲介者の勧告に従って秀吉への「出頭」に「同意」し、手筈を整えた。  数日後には、ついに氏直は弟氏房と共に城を出て、滝川の神所に投降した。 そこで氏直は、滝川・黒田を通して秀吉に対し、自らの切腹と引き換えに城兵の助命を嘆願した。 秀吉はこの申し出に「神妙」と感嘆しながらも、徹底抗戦した城兵をすべて助命する「法度」はないことを理由に、合戦の責任を氏政・氏照・松田憲秀・大道寺政繁の四人に負わせて、彼らに切腹を命じた。
秀吉・小田原合戦時最初の本陣・・湯本早雲寺
早雲禅寺
小田原城から一夜城を望む
小田原城~一夜城
北条氏政・氏照兄弟の墓  JR小田原駅付近
北条氏政・氏照墓

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2020.07.20(08:00) 312

**戦国大名・北条一族

**羽柴秀吉との全面対決

   氏規の上洛・出仕をうけ、秀吉は続いて氏政・氏直父子のいずれか一人の上洛・出仕を要請し、これに対し北条氏は、上洛の交換条件として沼田領問題の解決を要求した。
 本来この問題は、天正十年の徳川氏との同盟に際し、北条氏が上野の領有権を獲得し、自力によって帰属を図るべきものだった。

   秀吉も、この北条氏の要求については「事を左右に寄せ」たものと認識しつつも、北条氏の上洛・出仕を優先させて、徳川氏・真田氏に沼田領の割譲を指示する事にした。 秀吉は、北条氏が自力で沼田領を経略できなかった経緯を踏まえて、北条氏には同領のうち三分二のみを割譲し、残る三分一は真田氏にそのまま安堵し、北条氏に割譲した三分にに相当する替地は家康から与えると裁定した。

   天正十七年(1589)六月、氏直はその内容に「具に得心」した旨と、この了承をうけて十二月に父氏政が上洛する旨を秀吉に言上した。  秀吉は北条氏の返答を受けて、上使を派遣して沼田領の割譲を実行、七月に請け取りがなされた。 その後、沼田領支配は氏邦に委ねられ、氏邦は重臣猪俣邦憲を沼田城の城主として置いた。
 沼田領引き渡しにより、いよいよ氏政の上洛が政治的焦点となった。  ところが十月になって、沼田城主の猪俣邦憲が、真田氏に留保されていた利根川対岸の名胡桃城(群馬・水上町)を攻略するという事件が発生した。

   この報は、直ちに真田昌幸や徳川家康から秀吉のもとにもたらされ、秀吉はこれを沼田領問題の裁定に対する重大な違約行為ととらえた。   立腹した秀吉は、氏政の年内上洛が実現されなければ、来春に北条氏を追討すること、氏政の上洛が実現したとしても、名胡桃城攻略の張本人の成敗が無ければ、北条氏を赦免しない事などを周辺緒大名に表明した。
  十一月になると、北条に対し俗に宣戦布告状と称される条書を送付し、討伐の意思を示した。

   秀吉の強硬な態度に接した氏直は、来春の氏政の上洛の意思を伝えるとともに、氏政が上洛した後にそのまま抑留されるとの噂があるが配慮願いたい旨の要求し、名胡桃城については北条氏は奪取していないと弁明している。
  こうした北条氏の対応を、秀吉は上洛・出仕の拒否、沼田領問題裁定に対する否認として認識し、早くも十二月には諸大名に対して、北条氏追討の陣触を発した。 一方、北条氏もこれを受けて、秀吉との対戦を決意して、領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への参陣を命令し、羽柴軍迎撃の為の態勢を取っていった。 ここに至って、北条氏は秀吉との全面的対決に突入していく。
小田原城箱根口・城門跡
小田原城箱根口
現在至る城下町「薬舗」
小田原宿薬舗
現在に至る城下町「まるう蒲鉾」店
まるう蒲鉾店

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戦国北条氏・五代

2020.07.15(07:00) 311

*戦国大名・北条一族

**徳川家康・秀吉に従属す・・・

   その後、十月になって、家康は秀吉のもとへの出仕を決意、秀吉の本拠大阪城に登城し、諸大名列座の面前において秀吉への従属を表明した。 この家康の従属を受けて、秀吉はこれまで上杉景勝に委ねていた東国諸大名に対する取次役を家康に変えると共に、あらためて「関東・奥両国惣無事」の実現を家康に命じた。
この「惣無事令」は、秀吉が全国統治者、武家政権の首長という自覚のもと、諸大名の交戦を私戦とみなし、その停止を命ずるものである。 従って、惣無事令の受託は、秀吉への従属と一体のものとなり、秀吉従属下の諸大名は、秀吉の承諾なくしては、もはや他大名との交戦は出来ないという論理を有するものであった。

   これ迄、戦国大名が自らの領国とその「平和」を維持するために、隣接勢力との紛争を解決するための最終的裁判権として行使してきた交戦権が、統一政権としての秀吉の強い統制下に編成される事になる。
  ここに北条氏は、中央政権たる秀吉への従属か、対決かの選択を迫られた。

   天正十五年(1587)~十六年にかけて、秀吉による北条氏攻めが広く風聞され、そのため北条氏は、全領国挙げての軍勢の大動員を行ったが、 しかし、秀吉は北条氏攻撃を取りやめている。
  その後、家康から氏政・氏直父子に宛てて三箇条の起請文が送付された。 内容は、・・・・・

  ❶ 家康は氏政・氏直父子について秀吉に讒言しない、北条氏の領国についてはいささかも所望していない。
  ❷ 今月中に兄弟衆秀吉への御礼言上のために上洛させるのがいい。

  ➌ 秀吉への出仕を拒否する場合は、娘篤姫を離別してもらいたい。

   というものである。

   つまり、北条氏に対して全く他意を抱いていない事を言明したうえで、秀吉への出仕を勧告したものであった。  家康からこのような勧告を受けた北条氏は、秀吉に「何様にも上意次第たるべし」という旨の返事をした。
  これは秀吉への従属の意思の表明であり、これを受けて秀吉は、北条氏の「懇望」を認め「赦免」した。

   秀吉への従属については北条氏は「京都御一所」と表現し、「赦免」に対する御礼の言上のため、氏規の上洛が決定された。
氏規は八月十七日に上洛、二十二日に聚楽第に出仕して秀吉と対面した。  そして、二十九日に秀吉から暇を賜り、関東に帰国した。

北条早雲公馬上図・・・・・JR小田原新幹線口
北条早雲・新幹線口
北条氏政四弟・・氏規朱印   上洛・出仕  
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2020.07.10(07:00) 310

**戦国大名・北条一族

**家康との連携

   織田信長が本能寺で明智光秀に討たれて、以降・・・戦国の時代は混沌とした状況だ。 北条氏にとっても先の見通せない難しい状況にあった。

   天正十三年(1585)になると、羽柴秀吉は畿内、四国、北陸を相次いで制圧し、中国地方の毛利輝元、北陸の上杉景勝との領国境を画定して、畿内を中心とした羽柴領国を確立している。  さらに、その間に旧主筋の織田信雄を従属させ、7月には関白に任官して、武家政権の首長としての政治的地位を確立させた。   そうして秀吉は、同年六月ごろから家康・北条氏討伐の意を広く表明した。

   北条氏の家老二十人の起請文が徳川氏に送られ、徳川氏からも国衆・家老衆の起請文が北条氏二送られている。 これはそうした状況に対して、北条氏と徳川氏が改めて互いの同盟関係を確認したものだろう。
  具体的な内容は、「凡そ徳川氏とが再び抗争に至った場合には、北条氏は徳川氏を支援する」というものであった。  秀吉の来攻に備えて、両氏は互いの同盟関係のさらなる強化を図ったのである。

   しかし、家康の譜代家老の石川数正が秀吉のもとに出奔し、譜代家老の出奔は家康に大きな衝撃を与えた。  こうした秀吉による家康に対する政治的圧迫を踏まえて、翌年正月、秀吉の意を受けた織田信雄が、三河岡崎(岡崎市)に来訪した。  家康と会面して、両者間の関係の周旋を図ったのである。 これによって、家康はついに秀儀との和議の成立を決し、二月に和議が成立する。  それから1か月後の三月上旬に、北条氏政と家康は伊豆・駿河国境に於いて会面した。両者の会面は、家康から氏政に申し入れたものであった。 まず、家康が北条領国・徳川領国の領境である喜瀬川を超えた伊豆三島(三島市)に赴き、次いで、今度は氏政が喜瀬川を超えて駿河沼津(沼津市)に赴いて二度に渡って会談が行われた。 そして面会後、家康は沼津まで北条方見送られたが、その際、三枚橋城(沼津市)を破却している状況を見せ、また取次の任にある北条氏規に、三枚橋城の兵糧米1万俵を遣わして、北条領に対する武装解除の姿勢をアピールしている。

   氏政・家康の会面により、両者間の親交が深められたが、この会面は、家康から申し入れたものであり、家康は北条領に対する国境防衛の解除を示しているように、家康が極めて低姿勢に立って行われている。 これは、今後における秀吉への対応での連携を強化するためのものであったろう。
戦国北条氏・五代菩提寺・・・・・箱根早雲寺
早雲禅寺
戦国大名・北条氏五代墓所・・・・・箱根湯本早雲寺
後北条氏五代の墓
羽柴秀吉小田原合戦・石垣山一夜城を望む
小田原城~一夜城

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2020.07.05(09:00) 309

**戦国大名・北条一族

**氏邦の上野支配(続)

   新たに箕輪領が形成され、支配は氏邦に委ねられた。 滝川一益没落直後に箕輪極楽院に寺領を安堵しているから、直ちに氏邦は同領支配を担ったとみられる。  これは北条家当主の領域支配権を前提としたものであり、氏邦はそのなかで城付領における検地、年貢・公事収取、家臣らへの知行安堵・充行などの権限を認められた。
  北条氏本国地域における玉縄領・小机領・三浦郡と同様の性格のものととらえられる。 その意味で、本領である鉢形領支配とはせ格が異なった。

   天正十五年(1587)になると、その権限は大幅に拡大されたようで、事前に北条氏当主の了解を得るなどの事が見られなくなっている。 これと同時に、箕輪城には家老猪俣能登守邦憲を城代として据えている。 また、吾妻・沼田二領の真田氏に対する前線拠点として大戸城(東吾妻町)を取り立て、重臣斎藤摂津守定盛を城代に据えて、周辺地域支配を管轄させている。
  この箕輪城・大戸城を中心とした新たな領域編成に伴って氏邦の権限も拡大され、そのもとでの城代の任命であった。 これは、羽柴秀吉の裁定によって上記二領が真田氏から引き渡された結果で、これを氏邦に与えられ、それぞれに家臣を城代に置き、箕輪領に加え沼田領支配をも担った

**小田原合戦後の氏邦

    天正十八年(1590)の小田原合戦において、氏邦は居城鉢形城に籠城した。 同城への羽柴方の攻勢は、六月初旬頃から行われたようである。 六月七日付で羽柴秀吉が家臣加藤清正に宛てた書状には、「北条安房守御詫言申し上げ候へ共、聞こし召し入れられず」と述べているから、攻撃前後に氏邦は降伏を申し出ていた事、しかし、秀吉はこれを受け入れなかった事が窺われる。 そして鉢形城は開城した。

   これについて秀吉は、同じく加藤清正に宛てた書状で、「武州鉢形城北条安房守居城候を押し詰められ、則御成敗有るべしと思し召され候所に、命の儀はお助け成され候様にと御詫言申し上げ候に付き、城を受け取られ候、安房守剃髪し山林(隠遁)へと述べている。  氏邦の隠遁先は、花園城下の正龍寺と言われている。

**氏邦の妻子
   
氏邦の妻は、養父藤田泰邦の娘で大福御前と称されている。  天文十年生まれで、文禄二年に死去している。 享年は五十三歳、法名は貞心院殿花屋宗栄尼大姉といった。
  子女については、四人の男子と養子として氏政の五男直定があった。  長男に関してはよくわからず、次男は出家して鉄柱と称した。 
  三男以下は、小田原合戦時には幼少であったとみられる。   四男に関しての消息を前田家の「利家夜話」に見られる、初め京都紫野大徳寺で喝食となっていたが、慶長二年父氏邦が死去すると、利家は彼を召し出し、元服させ北条庄三郎と称させ氏邦の遺領1000石を相続させたという。 その後、通称采女と改め、利家の甥前田慶次郎の娘を妻に迎えた。
早雲寺山門・・・・箱根湯本
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早雲寺本堂の三つ鱗紋
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早雲寺・庭園
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