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鎌倉の石塔・その周辺の風景

2020.08.30(08:00) 321

**休稿のお知らせ

   例年にも増して残暑が厳しく体力が消耗しています。  コロナの影響で外出も儘ならず、心苦しい毎日が続いていますが、どのようにお過ごしでしょうか・・・・・・。  

 さて、毎回訪問いただき有難うございます。   今回、史料整理の関係で投稿を暫くやすみます・・・。  再開予定は9月中旬です。

                                                              mituuroko2
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近世都市への転換

2020.08.25(09:00) 319

**小田原藩

**小田原藩再復活

   家光は、なぜ側近稲葉正勝を小田原に配置したのか。 まず、この頃、家光には子が居らず、二元政治のための隠居城は必要なかった。 そして江戸と京都・大阪の間にあった家門の駿府城が消滅した。 この二点を考慮しての事だろう。
 御三家と肩を並べる駿府城を任せるに足る人物は、この段階では見当たらない。 となれば、駿府藩なしでの新たな江戸の防衛体制を組み立てなおす必要がある。 すでに前年から幕府は関東を囲繞する御要害地の調査を実施しており、箱根から碓氷を結ぶ関東山間と、利根川・江戸川とを防衛線とする関東御要害構想の検討が進められていた。 であるから当然のごとく、正勝が小田原城を拝領した際に、あわせて関東第一の要害である箱根の関所他四関所の警固が任された。 つまり、関東御要害を守る要の小田原城に将軍子飼いの年寄職を配置して江戸の藩屏としたわけである。

  事実、正勝は早速小田原城の縄張りをし直し、城郭整備に取り掛った。  そうした最中、相模、伊豆地方をマグニチュード7クラスの大地震が襲った。  内陸直下型の地震と考えられる。小田原城下の町衆・武家屋敷も被害を受け、家中の死者だけで237人を数えた。 城下町人の死者数は数えきれない。城も甚大な被害を被った。

    翌年に家光の上洛が予定されていたため、往路・復路の将軍御座所ともなる小田原城本丸は幕府の肝いりで迅速に再建される事となった。 天守を始め本丸御殿、本丸廻の石垣等については、幕府御作事奉行に任命された酒井忠知ら指揮官の許四万五千両の公費で、突貫工事が進められた。  藩庁たる二の丸屋形と迎賓館の役割を有する御花畑の茶屋は小田原藩稲葉家が一万七千両の経費を投入して完成させている。

   この寛永地震の復興過程で城下にも整備事業が施され、後の小田原城下町の基盤となる町割りが完成する。 新宿町から大手前まで新たに御成道を通しその沿道にあたる唐人町の町衆を移転し武家屋敷地としたり、板橋口(上方口)付近の寺社地の整理、下級家臣の為の割屋敷や足軽長屋の増設などが、急速に進められた。

   関東御要害構想の要は、やはり小田原藩にあったと言える。小田原城本丸に公儀(将軍)の御殿が改築されると共に、新たに御用米曲輪にには城詰米五千石が兵糧米として備蓄されることになった。 後に八千石に増量されるが、その量は江戸城に次ぐものである。合わせて城付きの武具として甲冑1000領余・鉄砲1300挺余・槍900本等が備えられ、、天守・櫓・土蔵などに置かれた。

   地震から一年後、以前より健康に不安のあった稲葉正勝は寛永十八年正月、病没する。 まだ、三十八歳であった。 残されたのは元服も済んでいない鶴千代(十二歳、後の正則)であった。 しかし、祖母春日局を悲しませないようにとの将軍家光の配慮から正則の家督相続がすぐに許され、稲葉家の江戸上屋敷は二の丸から西丸下に移された。 といっても、西丸下も大手前・和田倉門内とともに現役幕閣大名・旗本や家門大名の屋敷拝領地であるから、やはり別格扱いだったといえる。
小田原早川口・板橋(付近の寺社地)の復興
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春日局菩提寺・紹太寺
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令和二年・庚子・乙酉・庚子

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近世都市への転換

2020.08.20(07:00) 318

**小田原藩

**小田原藩再び消滅

   しかし、新将軍家光の誕生を機に実施された幕閣の人事異動をきっかけに阿部正次は岩槻(さいたま市)に移封し、再び小田原藩は消滅する。  その後は経験を買われて近藤英用が再度小田原城代を拝命した。
  枢要に位置する小田原城に、すぐに後釜の大名が指名されなかったのは謎であるが・・・??
  一番の理由は、家光の弟徳川忠長が駿府藩(50万石)を復活させたからである。 理由はもう一つあった。将軍職を継いだ家光が摂関家の鷹司家より孝子を正室に向かえたからである。 この為、江戸城本丸から大御所秀忠が西丸に移り、入れ替わりに西丸から将軍家光と孝子が本丸に入った。もし、家光と孝子の間に男子が生まれたならば、生まれながらにして徳川将軍家を継ぐべき嫡孫となるので、大御所秀忠も早晩西丸を明け渡さなければならなくなる。 これをきっかけに秀忠の隠居城探しが始まった。 家康が隠居時に入った駿府城には忠長が入っていたので、城主の居ない小田原城がその候補に上げられた。

   結局、大名たちに大規模なお手伝い普請が予想された大御所小田原隠居所計画は幻に終わり、秀忠は江戸城西丸に居ながら大御所政治を続けた。 計画が中止されたのは、何の事は無い、家光に子供が出来ず、秀忠が西丸から出て行かずに済んだだけのことである。

**関ケ原後

    関ヶ原の合戦で小早川軍の徳川軍への寝返りを成功させた立役者の一人、稲葉正成と福(家光乳母・春日局)を父母にもつ稲葉正勝は、家光のお七夜にあたる慶長九年(1604)七月二十三日、その小姓として召し出され、500石の齋地と20人扶持を拝領した。 弱冠八歳で直臣旗本の仲間入りである。その後、御小納戸、御歩行頭、御小姓組番頭、を経て、元和七年御書院番頭に出世し、知行も1500石を加増された。

   三代将軍となった家光は正勝に3000石を加増し、奉行職(年寄・老中)に任じた。 この抜擢は将軍家光による幕閣最初の人事であり、これにより正勝も国政に参加することになる。  翌年には知行を加増され、遅ればせながら大名(常陸柿岡藩一万石)の仲間入りをする。 さらに、下野国佐野で一万石を加増され、さらに父正成の遺領下野真岡藩二万石を相続し、真岡藩四万石の藩主となる。
  寛永九年(1632)正月、大御所秀忠の死去を契機として二元政治が終わりを告げ、幕府組織の大改革が始まった。そうした中、計八名いた年寄衆のうち、将軍家光は一番新参の稲葉正勝を取り立てて行く。 まず正勝は、江戸屋敷を江戸城二の丸に拝領した。 江戸城丸の内に屋敷があったのは、当時古参年寄りの酒井忠世と酒井忠勝だけであったから、彼らと肩を並べるまでに地位が上昇した事を意味した。

   さらに、「御代始めの御法度」とも呼ばれる将軍大権発動による大名の取り潰し策により、肥後熊本五十四万石の外様大名加藤氏が改易となり、熊本城受け取りの上使衆の一員に急遽正勝が加えられた。 上使軍を率いて肥後国の国政を沙汰し、合わせて中国・九州を幕閣の目で視察するという職務をつつがなく成功させた事は正勝の大きな実績となった。

   次に、甲府に蟄居中の忠長(家光弟)が上野高崎藩に預けられ(幽閉)、これにより駿府藩が消滅しる。 この忠長改易も「御代初めの御法度」とみなせるであろう。  直後の十一月、稲葉正勝の小田原城(八万五千石)拝領が公表された。  この時期、大加増を受けたのは正勝だけで、再び小田原藩が誕生した。
小田原城・銅板門
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銅門(赤金門)
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近世都市への転換

2020.08.15(08:30) 317

**小田原藩

**徳川直轄の小田原城

   家康は東海道の宿駅や傳馬制度を整え、主要な街道や往還沿いの各所に御殿をもうけていく。そして、家康や秀忠は出陣の際に限らず、東西の移動に際して小田原城本丸御殿を宿所とする事を常とした。
 慶長八年に将軍となった家康は、僅か二年で将軍の座を秀忠に譲り、かつての居城・駿府城(静岡市)を隠居所とした。

   大御所と将軍による二元政治の最中、江戸・京都との往復だけでなく、頻繁に関東各地を鷹狩りで訪れた。 そうした際の宿泊所の一つが小田原城であった。 放鷹は家康にとって軍事訓練と民情視察を兼ねたものであった。
  二元政治の秀忠政権において、関東を中心とする領国経営は大久保忠隣と本田正信の二人に任されていたと言って良い。 しかし、家康の外孫(奥平信昌娘)を妻とし、将来を嘱望された忠常が病没すると、忠隣は病床に伏せる事が多くなり、本田正信との間に確執を深めていく。 本田正純(正信・子)の与力岡本大八が引き起こした収賄事件が、その溝を一層深めた。  さらに、忠隣の養女を無断で倅の嫁にした罪で、常陸牛久藩主山口重正政が取り潰される事件が起きた。
 こうした身内の厳罰・極刑に接した忠隣が将軍秀忠の元への出仕を滞らせたため、家康・秀忠・正信との意思の疎通を欠くことになる。 そうした状況で家康・秀忠は、小田原城を接収し、北条氏の遺物ともいえる大外郭を破棄したと言われる。 なお、この忠隣の改易理由を公儀御法度に叛いたからと解釈されがちだが、大名らの御法度を定めた武家諸法度はまだ発令されていない。 

   忠隣は京都所司代板倉より改易の奉書を受け取ると、僅かの家臣を従え、配流先近江国(滋賀県)に向かった。 小田原城・領地は収公されたが、別途五千石の知行が保証された。 その直後、配所から小田原の若宮八幡宮に奉納した願文で忠隣は無実を訴えている。 忠隣の子や孫たちは縁座の対象となり、それぞれ蟄居・謹慎となった。 また、とばっちりを受けたのが忠常の長女を娶っていた里見直義で、安房舘山12万石から伯耆倉吉3万石へと減転封となり、外様大名を関東から追い出す口実を用意することになった。

   接収された小田原城は幕府の直轄となり、しばし番城となった後、大阪夏の陣後の元和元年(1615)から旗本の近藤秀用が小田原城代として小田原城の守衛を任された。 その後、幕府奏者番の阿部正次が小田原で二万石を加増され、上総大多喜から小田原に入封し、小田原藩が復活する。
  この年に、箱根山中の芦ノ湖畔、東海道に沿って箱根宿が新設され、箱根関所が置かれる。 「 入り鉄砲に出女 」を取り締まり、東海道に於いて浜名湖畔の新居(今切)関所と共に重要な関所とされた。  当時、箱根の東西、それぞれ一番近い地域である小田原と沼津には大名が配置されていなかった。つまり、箱根関所で万一の事が有った際駆け付ける兵力を確保する為に小田原藩が復活したのである。
何処で使われたのか??城の石材
城・石材
江戸期の町名を残す・・
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江戸期・町名
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2020.08.10(08:00) 316

**小田原藩

**大久保氏による領内経営

   戦禍に見舞われた小田原の城付領のうち、酒匂川左岸地域に検地が実施される。 家康が関東各地で実施した徳川系検地の一環として、忠世の家臣が検地奉行となって行われた。
  この検地は秀吉の太閤検地とは違う特色が見られる。  それまでは、大規模な経営を行う複数の百姓の住む荘・郷が、核となる百姓経営毎に村切りされ、各村ごとに一人の名主(庄屋)が置かれるようになった。  名主の呼称は後北条時代から見られるが、荘・郷単位の年貢を請け負うような大庄屋は廃止され、一村の年貢請負に責任を持つ近世的な名主村請制が採用された。 後北条氏の家臣のうち在地性の強い地侍層は、これを機に土着し土豪百姓として名主となったものも多い。
 一言で村請制といっても、戦国期と近世とでは本質が全く異なる。 また、検地帳にはそれまでの貫高に代えて石高表記が使われ、田畑の名請けがなされたように兵農分離も一定程度進められたが、隷属関係を示す分付記載や門屋も少なからず見られた。そうした隷属関係がこの地方から完全に見受けられなくなるのは約100年の時間を要することになる。

   さて、小田原城下の支配は当初、家康配下の加々爪政尚や江戸の町奉行と小田原の「地奉行」を兼務する板倉勝重が管轄しており、城付領村からの年貢米徴収など蔵米管理は徳川直轄地同様に代官頭伊那忠次が担当していた・。しかし、それも文禄元年(1592)頃から忠世の重臣(家老)へ順次引き継がれていく。 それと合わせて、大口(南足柄市)の土手普請など足柄平野を流れる酒匂川の治水事業にも着手したと考えられている。

   家康のもと戦国時代を生き抜いた忠世は小田原で没し、自ら開基となった大久寺に葬られた。 忠世亡き後、遺領を継いだ忠隣の代にも酒匂川の治水事業は継続された。それまで暴れ川であった酒匂川の本流を足柄平野の中央部に固定する為、班目村(南足柄市)から延びる大口土手を完成させた。 この、土手普請と並行して新川(酒匂堤)の開削も進められた。 金手村(大井町)から酒匂川本流の水を分けて、酒匂川東部の十三ヵ村を潤す用水路である。

   ところで、小田原の城主(藩主)の居所は二の丸屋形でであり、本丸御殿は徳川将軍家の陣所であった。
  文禄の役(朝鮮出兵)に際して江戸を出発した家康は、途中小田原に着陣、肥前名護屋に向かい、翌年の帰路でも小田原城本丸に入城している。  石田三成方との決戦(関ケ原合戦)に向かうに際しても家康は、小田原に着陣し、西上していく。 この時は、秀忠に従軍し上田城真田攻めに加わった忠隣に嫡男忠常が小田原城で家康を出迎えている。 すべからく小田原城本丸は徳川氏の本陣として機能しており、その性格は江戸期を通じて変わらない。
小田原城・早川口付近
早川口
旧東海道・風祭付近
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大久保忠世菩提寺
大久保一族菩提寺

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近世都市への転換

2020.08.05(07:00) 315

**小田原藩

**初代城主

   小田原合戦の終盤、天正十八年(1590)6月までには、関東・奥両惣無事の責任者とされた徳川家康の関東への国替えは決まっていたとされる。 秀吉の腹づもりとしては当然の流れである。
 北条氏が降伏し、小田原城に入った秀吉から家康の江戸移封が公表され、併せて家康の重臣大久保忠世が小田原城主に指名された。 その際、忠世は家康から城周の所領四万石を預り、さらに秀吉から五千石を加増された。 直後、忠世の嫡子大久保忠隣も武蔵・羽生領(二万石)を拝領したので、親子で計六万五千石を領有する事になった。

   大久保氏は三河時代より松平家に仕える古参の家臣で、碧海郡上和田郷(岡崎市)を本貫の地とする。忠世は忠員の嫡男として生まれ、天文十五年、渡河原の戦いで初陣を飾り、弘治元年(1555)、松平竹千代(家康)の手勢が今川義元軍の先鋒として蟹江城(蟹江町)を攻略した際の戦攻者「蟹江の七本槍」には忠員ほかその子忠世・忠佐ら大久保一族が名を連ねた。

   その後、家康は西三河の一向一揆を相手に苦戦するが、これを平定し、三河に於いて大名としての地位を確立する。 さらに、今川氏の去った遠江国を武田氏と奪い合う状況の中、居城を岡崎から浜松へと移した。その後、武田氏が滅亡し、駿河・信濃・甲斐を含めた五ヶ国を領有することになる。

   小田原を任された忠世は当初、元北条家臣山角氏の屋敷に住居しながら、早速小田原城の修築に取り掛った。入生田など早川筋や久野などから石材を調達して本丸廻、内・外堀などの石垣普請に取り掛った。 それは、伊豆石を搬入しての江戸城の築城にも先立つものであった。 後年、稲葉氏が建造する外堀の切り石による石垣の下から発見された、玉石積の石垣がその一部と考えられる。  北条氏の堀(障子堀)と土塁を防御の基本とする小田原城は、その戦国期の城域をベースに、石垣造りの近世的な城郭へと変貌を遂げる事になった。

   二重櫓のの天守が後北条時代よりあったと推定されているが、忠世、ないしは忠隣の時代、その上に石垣を伴った三重の天守を築いた可能性がある。  昭和になって現在の天守を築造するため天守台を掘り下げた際に、その下から古い野面積の天守台石垣が発見されており、その事を推測せしめる。 また、小田原城の本丸御殿は北条時代の物を当初家康も御殿として利用したようだ。
  だが、北条時代よりそのまま小田原城にそのまま現存する生き証人は本丸七本松の一本(クロマツ)のほか、二の丸のイヌマキ、ビャクシンたち巨木だけである。
初代小田原城城主・大久保忠世公墓所・・・・・小田原・大久寺
大久保一族・墓所
大久保一族菩提寺・大久寺
大久保一族菩提寺
伝・城門礎石・・・・・・小田原城内
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