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近世都市への転換

2020.09.25(10:00) 323

**小田原藩

**元禄地震と藩の復旧

   元禄十六年(1703)11月23日午前2時頃、相模湾の相模トラフを震源とする海溝型の大地震が発生した。 マグニチュードは八・ニと推定されている。 最大震度七で、房総半島と伊豆半島を巨大津波が襲い、小田原も被災した。
 地震直後、江戸に届けられた情報によれば、小田原城は天守・本丸御殿・二の丸屋形が残らず倒壊、門・塀・土居・石垣が各所で崩れ、家中の屋敷も家老杉浦平太夫をはじめ18軒、同心小屋も悉く倒壊した。 城下の町人町も19町のうち10町が出火によって焼失。 家中の死者は、家族を含め御番帳入(知行取家臣)が34人、御番帳外(小役人・徒)が27人、家中奉公人(足軽)75人で、城下町人の死者は651人、同じく寺社で13人が犠牲となった。
 領分の村々の倒壊家屋は計836軒、死者は城付領(相模国足柄上・下郡)で613人、箱根(小田原町)18人、伊豆772人、御厨36人、死者総数は2261人に上った。

   地震時、天気も良く、冬季の季節風が吹き付け、真夜中ではあったが城下各地から出火した。  埋火から火が出たのであろう。  とくにに城の北側、小峰から飛んできた火の粉が崩れた本丸御殿の瓦礫に燃え移り、常盤木門、さらに二の丸・家中屋敷へとたちまち燃え広がったという。箱根山中の東海道(現旧道)、及び根府川道は各所で石や土砂で塞がれ、崩れ落ち不通となった。

  ところで、こうした各地の被害データは老中上座にあった柳沢吉保の許に集められた情報に基づいている。  比較的正確に、、しかも迅速に被害情報が大名や幕府代官により幕府に届けられていた事を意味しており、それを可能にした理由がある。
  寛文五年以降、全国規模で宗門人別改が実施されるようになり、各村・町単位で住民台帳が完備されるようになったからであった。 武士人口や滞留人口の多かった江戸を除けば、1村まるまる津波に流されても行方不明者が判明した。 それ以前の災害での被害者数は概数や、曖昧な報告に基づいていた。

 さて、小田原藩領の人的被害は城下の類焼地域、及び津波被害のあった伊豆半島東岸に集中していた。そして、小田原城を含めて城下の家屋は震動でほぼ全滅したが、人的被害は武家地より町人地の方が割合が高く、町人町では類焼した町がしなかった町より1・8倍の死者を出している。 それは、城下に多かった板葺(小田原葺)の民家では倒壊による圧死より、崩れた家屋に閉じ込められたまま火災にひげ遅れ、煙による二酸化炭素中毒死のケースが多かった事を物語っている。

   城下町を東海道に沿って東西に暗渠で流れていた小田原用水は激震で崩れ埋まり、溢れ流れ、消火・延焼防止に全く役に立たなかった。因みに後の関東大震災に際しても小田原用水はまったく同じ状況を呈することになる。
小田原城より相模湾を望む・・・伊豆半島
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掘割
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小田原ういろう本舗
小田原ういろう本舗

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令和2年康子・丙戌・辛未
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近世都市への転換

2020.09.20(08:00) 322

**小田原藩

**大久保氏の再入府と災害

    稲葉氏が越後高田(上越市)に転出したあと貞享三年(1686)、下総佐倉から大久保忠朝が小田原に入府する。  時代は五代将軍綱吉の治政である。 大久保氏にとってみれば73年ぶりに故地小田原への復帰であった。  忠隣改易後、孫の忠職は武蔵騎西藩(二万石)、から美濃加納(五万石)、播磨明石(七万石)を経て、慶安二年肥前唐津(八万三000石)に転じた。
   次いで忠職の甥忠朝が分家から大久保本家を相続し、延宝五年(1677)には幕府の老中職を拝命する。 さらに翌年、唐津から佐倉へ移封となり、その八年後、小田原(10万石)を拝領したのである。 唐津から佐倉への転封に際しては幕府から破格の三万両を拝借したが、それは返済しなければならない借金であった。そして、短期間に国替えを繰り返したことが、藩の財政を圧迫した事は容易に想像されるのである。

   そのような中、将軍綱吉は元禄元年から大名江戸屋敷への御成を始める。皮切りは西丸下の側用人牧野成貞邸で、牧野邸にてみずから「大学」を講義し、それ以降、大名邸御成でのメインイベントが能・数奇(茶)から講書へと変化する。  その後、同じく側用人の柳沢保明(吉保)邸への御成が始まり、こののち柳沢屋敷への講書御成は計58回を数えたとされる。  そしてとうとう、綱吉は老中邸への御成を宣言する。 いの一番は当時老中筆頭の大久保邸であった。大変な事になった。
  まず、西丸下の大久保邸南隣にあった元曽我助興屋敷を添屋敷として拝領する。 そこに、一万両の恩貸金を借りて御成御殿を新築した。 翌年の七月が御成予定で、献上品の準備に費用も掛ったが、もっとも忠朝を悩ませたのは将軍の前での講書と舞の披露であった。 御成時、忠朝が「論語」を講書した際には、綱吉が上壇の間から下壇の間に降り忠朝の隣で聞いたという。 学問の場では平等だという事らしい。  
  新設の舞台では忠朝の息子忠増・教寛・教信の三兄弟が能を五番舞って見せ、綱吉も仕舞を三番舞ったのち、忠朝も仕舞を一番披露した。 そののち屋敷への御成のあった四老中が揃って一万石の加増を受けた。  翌年も大久保邸に二度目の御成があり、将軍の前での講書について忠朝は、「大汗をぬぐい」、「難儀に侍らん」とその心境を吐露している。 
大久保一族・菩提寺・・・小田原市早川
大久保一族菩提寺
大久保一族墓所・・・・小田原・大久寺
大久保一族・墓所

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令和二年庚子・丙戊・丙寅

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近世都市への転換

2020.09.15(09:00) 320

**小田原藩

**稲葉期の小田原藩軍役

   さて、若くして家督を相続した正則は、幕閣への参加と、関東御要害構想の要の城の経営をどのように勤めたのかを検証してみよう。

   島原への出兵など戦場への出陣こそなかったが、まず、将軍の日光社参への供奉や将軍に代わっての代参・上使があった。例えば、家光の日光社参に正則は随行を自ら希望し、その願いは叶わなかったが、翌年家綱の社参に供奉し跡押さえを担当している。また、幕閣クラスの家門・譜代大名は、当主が幕閣の要職についていない時、江戸城の大手三門の警衛番などを交替で務める義務があった。 稲葉氏も内桜田門番や城中紅葉山の火の番等を務めた。   将軍が寛永寺や増上寺への参詣の為出城する時、沿道の警固役を務める事もあった。 これらの番役は旗本直轄軍のみならず、幕府軍の中核が家門・譜代大名であった事を物語っている。

   小田原藩の固有の軍役としては、小田原城、及び箱根関所など要害の番役が挙げられる。 とくに箱根関所では大名らの携帯する鉄砲・槍の数を管理し、規定以上の武器の通過を制御するとともに、武家女性や事件首謀者・犯罪者らの通行を厳しく取り締まった。 箱根要害における関所破り防止は勿論のこと、江戸城周辺に事あるたびに、各関所、要害には加番の人数が増員され、警固を強化することになっていた。
  将軍の軍事統帥権の発動という側面からみれば、大名の参勤交代や首都江戸の大名火消し役、さらに各江戸藩邸の日常的な警備などは、国元からの兵力移動を伴う点からも広義の軍役であったと言える。

 軍役以外では、お手伝い普請として、江戸城の諸門・石垣の普請役を度々務めた。 又、災害時には小田原城の修築、箱根・熱海の将軍家用御殿や各関所の修理、東海道の道橋維持の為の普請も担当した。 こうした普請に領内の農民・職人が動員されるだけでなく、稲葉氏は知行取家中や足軽たちにも「役人」と呼ばれた人足役をを負担させ凌いでいる。
   さらに、特徴的な役負担として石材の献上御用が挙げられる。 領内の風祭・根府川・岩・真鶴などで良質な石材が産出したため、江戸城の石垣のみならず、寛永寺紅葉山の仏殿や禁中御庭造営用にも献上された。

  領内村の統治に関して、稲葉氏は、すでに幕府領で導入されていた五人組制度を採用するとともに、各村に名主を補佐する組頭役を置いた。 治安維持や年貢・夫役の村請制を補充する為である。 しかし、家中の地方知行制は全面的に廃止され、、藩士全員が蔵前知行取となり、家中の在地性は完全に否定された。 これは、この時期加増・転封の多い家光期幕閣譜代大名に共通する方針で、近世大名として兵農分離を決定づける施作であった。

   寛永年間になると、町人請負型の新田開発が見られるようになる。 中でも箱根用水は、箱根外輪山にトンネルを堀り、芦ノ湖の湖水を駿河国側の喜瀬川筋に通し、一帯の畠地を8000石の田地にしようとする一大事業であった。 深良村(裾野市)大庭源之亟を発起人に、江戸の商人友野与衛門ら四人の町人を元締めにして、小田原藩と幕府代官野村彦太夫に出願された。 工事が進められどうにか完成するが、出願町人たちの自己資金三千七百両では足りず、幕府に願い出て公金六千両を拝借し、どうにか開発を成功させた。

   後期家綱政権期のこの時期、関東周辺での大規模新田開発に公金支出が集中しており、その背景には首都江戸の危機管理政策があったと考えられる。
小田原城
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2020年09月
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