FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.30(07:00) 100

**東アジア世界の動向

**三別抄と日本

この三別抄の抵抗が、モンゴルの日本攻撃を大幅に遅らせるものであり、モンゴル軍を疲弊させたものであった。  しかも、それだけではなく、没落以前に三別抄は、日本(京都朝廷)との連携を模索していた。

1271年(文永八年)、鎌倉幕府の使者が、西園寺実兼(sanekane)のもとに「高麗牒状」 を届けた。 実兼は、幕府との連絡役である関東申次の地位にあった。  この牒状は、後嵯峨院の評定にかけられ、貴族たちがその解釈や対応について議論を繰り広げた。

この「高麗牒状」 の内容については、研究者の調査から三別抄からもたらされた牒状である事が判っている 「珍島に遷都する」 という文言があり、日本側にモンゴル軍への抵抗の為の援助を求めたものである。

また、モンゴル・高麗の軍事的動向等について、日本に情報をも提供している。 そして恒常的な外交関係を結ぶ意図も含んでいた。 さらに、日本からの使者派遣を要請している。
この様に三別抄は、日本との間に対等・平等の国交を求めていた。  しかし、日本の朝廷では、この提案を理解する事が出来ずに、「不審」 としてかたずけ、まともな対応をしなかった。

一方で、鎌倉の幕府は、九州に所領を持つ御家人に対して、九州に下向して、守護の指揮下で異国防衛に対処するよう命じている。  これが現状での、三別抄の働きかけに対する幕府の唯一の対応であった。 そして三別抄の反乱は終息し、文永の役を迎える事になる。

**アジアの「元寇」

高麗に対する様に、モンゴルの侵攻は厳しいものであった。  同様な侵攻を、モンゴルのは各地で繰り広げていた。  その点で「元寇」 は日本特有の攻撃ではありませんでした。 むしろ、日本の受けた被害は、他の地域に比べ小さいものであった。

モンゴルが侵攻した国々を列挙すると、雲南・南宋・ベトナム・ミヤンマー・タイ・台湾・沖縄・ジャワ・サハリンなどである。
このうち南宋に対して、フビライは執拗に攻撃を続けた。南宋の攻撃は、すでにオゴデイとモンケの時代に二度試みて二度とも失敗していた。

まず南宋を孤立させる作戦として、東方で高麗に、西南方でベトナムに重点を置いて攻撃した。  1261年(弘長元年)ベトナム国王を冊封(sakuhou)し、行政官を置いた。

フビライは漢人部隊と蒙漢混成の特殊部隊を編成し、1274年(文永11年)南宋への大侵攻が始まった。  南宋側も軍馬13万・戦艦2500艘を保有していたが、寄せ集めの軍にすぎず、全軍壊滅。  南宋の首都・臨安は無血開城した。

南宋を攻略した後、インドネシア方面と日本が主要な標的となった。 1280年(弘安三年)、日本征討の為の機関として征東行省を置くが、同時にビルマ攻撃を開始した。さらにベトナムでは傀儡政権を作り上げた。  フビライは、1294年の死に至るまで、三度の日本遠征を計画したが、南宋の故地で反モンゴル蜂起が起こり、インドシナ方面の戦況が泥沼した為、実現しなかった。

**モンゴル国書到来

1266年(文永三年)八月、日本との通商を求めるモンゴル皇帝フビライの国書を携えた、二人の使者が日本に向かって出発した。  正使はモンゴル人の黒的(kokuteki)、副使は漢人で殷弘(inkou)という。  彼らが高麗の都・江都(kando)に到着したのは、三ヵ月後のこと。  高麗に日本までの道案内をさせる為である。  しかし、この第一回目の遣使一行は巨済島(kojiedo)までは渡ったものの、遥か対馬を望んだだけで引き返している。  理由は、風波の荒さに危険を感じたから言うのであるが、こうしたモンゴル使者の消極的な行動の背後に、高麗の宰相・李蔵用の巧みな働きかけがあったことは見逃せない。

高麗王から二回目の使者が大宰府に着いたのは、1267年(文永四年)11月、フビライの国書は翌年正月に鎌倉に到着、さらに二月初めには朝廷にもたらされているが、評定の結果は、返書を送らない事、緒寺社に異国降伏の祈祷を命じる事などであった。この様に返書を返さないで黙殺するという朝廷の方針は、フビライの国書から、「通商」 ではなく「侵略」 を読み解いていた幕府の方針に従ったものであった。

当時、モンゴルについての情報が、日本からの入宋僧・宋からの来日僧・日宋間の貿易商人など、モンゴルに圧迫を受けていた南宋側を通じてもたらされた情報によるものであろう。  幕府の指導者にとってモンゴルと云えば、南宋と同じく侵略者・征服者に他ならなかった。

以後、1271年(文永八年)九月、までに五回目の使者が到着し、フビライの日本遠征計画が着実に具体化しつつあった。  先述した三別抄から京都朝廷にもたらされたモンゴルによる日本攻撃の情報は、この時期と考えている。    次回へ

訂正・・・・モンゴル帝国皇帝 「フビライ」 を 「クビライ」 と記していました。 以後、 「フビライ」 に統一します。

丁酉・辛亥・庚寅
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


文永・弘安の役 トラックバック(-) | コメント(1) | [EDIT]
<<鎌倉幕府八代執権・北条時宗 | ホームへ | 鎌倉幕府八代執権・北条時宗>>
コメント
>以後、1271年(文永八年)九月、までに五回目の使者が到着し、フビライの日本遠征計画が着実に具体化しつつあった。  先述した三別抄から京都朝廷にもたらされたモンゴルによる日本攻撃の情報は、この時期と考えている。

〇モンゴル帝国の侵略と抵抗、たいへん面白い内容に感動です。
 なかでも高麗の抵抗、あまり知りませんでしたが、重要ですね。
 また、高波の影響も面白いですね。確かに対馬海峡は高波で怖いですね(笑)。
 草々
【2017/10/30 07:56】 | レインボー(ささげくん) #- | [edit]
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する