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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.03(07:00) 101

**モンゴルの牒状

**困惑する高麗

数回にわたって、北条時宗が立ち向かわなければならなかった、周辺(東アジア)諸国の動向を見てきた。
扨て、本題に戻るる事にする。    鎌倉で将軍が宗尊(munetaka)から維康王(koreyasu)へと更迭された頃、遥か遠くのモンゴル帝国では皇帝フビライが、高麗人の商人から、日本に関する様々な情報を得ていた。

日本は、文化・政治ともに、見るべき在り。 金を大量に産出し、これを南宋に輸出す。 今の南宋の富裕は、もって日本のおかげ也。その日本と我が高麗とは、通交の歴史は古い。

高麗の商人から得ていた日本観である。

二人の国使が高麗に旅立った。 高麗に国使を派遣するための仲介の労をとってほしいという事であった。  高麗政府は困惑した。  国使の使命は、 「蒙古に服属せよ」 と日本に伝える事である。 当然日本は拒絶するであろう、そうなればフビライは、日本に遠征軍を送ることになる。 必然的に高麗は、日本遠征軍の根拠地にされる。兵糧の徴発、軍船の建造、兵員の提供等が、要求されることになるからであった。

疲弊しきっている高麗に、そんな余力はない。  だが蒙古の属国になっている高麗に、フビライの命令を拒絶する事は出来ない、とにかく高麗は、進退窮まった。
高麗政府の副使、侍御史の二人が、フビライの国使を案内して、朝鮮半島南端に浮かぶ巨済島に到着した。 冬の玄界灘は、荒れに荒れていた、荒れ狂う風浪を見て、二人の国使は日本への渡海を諦めた。

その、玄界灘を使節に見せつけたのは、高麗宰相の李蔵用(ri・zouyou)の作戦であったと言われている。  しかし、国使二人も、それを知っていてわざと李蔵用の作戦に乗ったふしがあり、さらには作戦を立てたのは国使当人だった可能性を指摘されている。 日本に到着しても、日本に対して 「蒙古に服従せよ」 などと言ったら、日本で誅殺される危険も有ったからである。

再度の高麗への命令は、激怒したフビライが発しただけに、更に苛酷になっていた。 理由を付けて命令に従わなかった事を責めると同時に、 「日本への牒状伝達のこと、蒙古使二人を煩わせる事無く、もっぱら高麗国の責任においてなせ」 と、命じてきたのである。  蒙古使二人の安否を気にかけたとした高麗の言い分を、逆手に取ったのである。

黒的・殷弘の二人は日本には行かず、日本への牒状は、高麗が日本に届ける事なった訳である。
高麗政府の潘阜(hanpu)を正使とする日本招諭使一行が、対馬あるいは壱岐を経由し日本を目指したらしいが、そのルートは不明である。  いずれにしても博多湾に現れるまでに、三か月以上も要している。

蒙古からの牒状の現物は、残念ながら残っていない。   東大寺の尊勝院の僧・宗性(sousiyou)が書き写したものが、東大寺に伝わっている。 宗性は法性寺(hotusiyouji)の称願房(siyouganbou)という僧から、写本を借りて書き写したものである。

*大蒙古国の皇帝・書

日本国王に奉ず。  朕、思うに、古より小国の君、境土、相接すれば、なお努めて信を講じ、睦みを修む。
いわんや我が祖宗(ジンギスカン)、天の明命を受け、区夏(世界)を奄有(領有)す。 遠方の異域、威を怖れ徳に懐く者、悉くは数うるべからず。
朕、即位の始め、高麗の無辜の民、久しく鋒鏑(合戦)につかれしをもって、すなわち兵を罷め、その境域に還し、その家族に帰せしむ。 高麗の君臣、感戴して来朝す。  義は君臣といえども、歓は父子の如し。 計るに王の君臣、またすでにこれを知らん。  

高麗は、朕の東藩なり。  日本は高麗に密邇(隣接)し、開国以来、また時に中国に通ず。  朕が躬にいたっては、一乗の使も、もって和好を通ずるなし。  なお王の国、これを知ること、いまだ審らかならざるを恐る。  
故に特に使を遣わし書を持し、朕の志を布告す。  願わくば今より以往、通問して好みを結び、もって相親睦せん。  かつ聖人は、四海をもって家となす。  相通好せずんば、あに一家の理ならんや。  兵を用いるにいたっては、それ、いずくんぞ好むところぞ。  王、それ、これを図れ、不宣

至元三年(文永三年・1266)八月  日

朝廷は大騒動となった。  しかし蒙古が申し入れてきた和親という事を、受け入れるか否かという事は、最初から問題にはされなかった。  寛平六年(894)に遣唐使を廃止して以来、朝廷は正式な国交をどことも結ぶ事無く、一種の鎖国が祖法になっていたからである。  和親は、最初から拒絶という事だった。  しかし問題は、拒絶という事を文書にして渡すか否かであった。  つまり辺牒するか否かである。    次回へ

丁酉・壬子・甲午
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