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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.07(07:00) 102

**蒙古の牒状と朝鮮半島情勢

**幕府・朝廷の対応

永年、高麗とは戦ってきた。  しかし高麗の国民が疲弊しきっているのが憐れであったので、高麗の降伏を認めて、属国にしてやった。  形式的には属国であるが、実際には父と子のように仲が良い。  だいたい我が祖父ジンギスカンの頃から、、蒙古の周辺の国々は、蒙古の威を怖れ徳を慕って、続々と服従してきている。  そして日本は、中国・高麗とは、修好があったという。  それなのにまだ日本は蒙古に使者を一人だって、送ってきたことが無い。  この辺で付き合いを始めよう。  いやだと言えば、軍隊を送ることになる。  とにかく付き合おう。

南宋では、この種の書式には決まりがあった。  身分の上の者が下に対する時は 「不具」 で、下から上へは 「不備」、そして同位ならば 「不宣」 である。  そして蒙古の牒状の書き止めは、「不宣」 だった。  「大蒙古国皇帝」 と 「日本国王」 とを、同格と見做した訳である。

しかし、きわめて尊大かつ無礼な字句も、多く見られる。  「大蒙古国皇帝」 と片や大があり、日本国王は、「小国の君」 とするなどが、それである。   因みに中国・朝鮮・日本などでは、敬意を相手に示すときの書式が、早くから成立している。

この様な調子を打ち出している蒙古と付き合う事となれば、高麗の様に属国の扱いを受けることになるだろう。  「とにかく付き合おう」 と言われても、平等対等の付き合いではない。  和親と云っても、一方では 「兵を用いるに至っては・・・・」 とあるように、従わなければ、武力を行使する云々は威嚇に他ならない。

「返牒せず」 と朝議が決したことは、すぐに鎌倉に伝えられた。  これを受けて幕府は、すぐに西国の守護達に、下知を発した。

蒙古人、凶心をさしはさみ、本朝を伺うべしとの由、近日、牒使を進むところなり。  されば、「早々と用心すべし」 との由、管国の御家人らに相触れらるべしとの状、将軍家の仰せによって執達すること、件の如し。

現存する守護宛ての下知であるが、当然、九州の諸国や瀬戸尚海沿岸の諸国、また日本海側の諸国にも同様の下知が発せられたものと思われる。  そして、その頃鎌倉の幕閣で人事異動が行われた。  幕府・連署であった北条時宗が執権に、執権であった北条政村が連署に、職務の交代があった。

北条得宗家・嫡流の執権就任である、対蒙古に対して徹底抗戦の決意を日本中に知らせる意味もあったと思われる。  十五歳という気鋭の時宗を先頭に立て、六十四歳という老練の政村が、これを補佐するという態勢が、成立したのである。
鎌倉五山第二位・臨済宗円覚寺山門
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北条時宗公・墓所   仏日庵
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一方、京都では「返牒あるべきや否や」 という議題で、再度の会議が開かれている。  先の会議で敗れた老人たちが、事を蒸し返したのである。  しかし老人派の期待は、すべて外れた。 むしろ結果的には、 「返牒せず」 という事の理由付けが、逆になされることになったのである。

「蒙古の牒状、その言葉無礼になるによって、敢えて返牒に及ばず」

こうして、やっと事は決着した。


蒙古からの牒状が来たという事は、ようやく世上にも知らされていた。  しかし、多くの人にとって、あまりにも蒙古は遠かった。  従って無関心の者が、圧倒的の多かったと考えられる。 その様な世上にあって一人、際立ったのは、日蓮(nitiren)だった。 九年前に予言した他国侵略の難、が的中したのではないか、という事である。   次回へ

丁酉・壬子・戊戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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