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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.11(07:00) 103

**蒙古の牒状と朝鮮半島情勢

**再度の牒状

朝廷では、返牒せずと決定したが、そのことは使節(藩阜)一行には、まったく知らされ無かった。  結局、何も知らされることなく、やがて藩阜一行は帰国した。  藩阜が高麗に帰り着いたのは、元宗九年(文永五年・1268)、七月だった。

帰国した藩阜の報告に、高麗王・元宗(gensou)を不安に陥れた。 五ヵ月も日本に滞在していたのに、返牒を得られず、なぜ返牒を得られなかったのかもわからず、要領を得られなかったからである。
そのままフビライに報告すれば、必ずフビライは激怒するに違いない。


しかし元宗は、すぐに藩阜を蒙古に送った。  新たに二人の使節が同行、二人はフビライの怒りをなだめるために、「来たるべき日本遠征ののため、既に高麗は、兵の徴発を準備し、軍船の建造に着手しあり」  という元宗の奏状を所持していた。 どうせ命じられるなら、先手を打った方が良いだろうと、元宋は考えたのである。

蒙古使一行が、対馬の豊岐浦に着岸したのは、文永六年(1269)二月であった。 しかし一行は、そこで抑留された。  島主の宗資国(sou sukekuni)が、それ以上の渡航を阻止したのである。 鎌倉の幕府から指令があったと思われる。  資国は、一行を抑留したまま、早舟を出して大宰府に急報した。

大宰府の小弐資能(sukeyosi)も、直ちに六波羅に急報。 要した日数は十六日間であった。  すでに、山陽道の宿駅・伝馬あるいは早船の設備が、為されていたのだろう。  もちろん、これも幕府(時宗)の下知があったからに違いない。

いずれにしても六波羅探題の北条時茂と時輔(時宗・異母兄)は、鎌倉に急報を発すると同時に、参内して事の次第を朝廷に報告した。  

四月になって、朝廷では院の評定を開き、幕府の意見(返牒せず)に従って決定された。
いずれにしても、今回の院の評定での決定は、極めて重大だった。  承久三年(1221)の乱で、朝廷は多くの権限を失ったが、今回の決定は外交権をも失ったという事を証明するものだった。

同時期に、鎌倉で一つの改革が行われれていた。  文永三年(1266)に廃止されていた引付衆制度が三年ぶりに復活したのである。  廃止時の引付番は、三番編成だった。  そして復活したのは、五番編成だった。  各番の頭人は、次のようだった。

一番頭人・・・・名越流北条時章
二番頭人・・・・金沢流北条実時
三番頭人・・・・塩田流北条義政
四番頭人・・・・佐助流北条時広
五番頭人・・・・安達泰盛

五人のうち四人までが、北条一門であった。  そして一門ではない安達泰盛も、妹堀内殿が時宗の妻だったから、准北条一門ということになる。  引付衆制度を復活させたことと、新しい頭人の顔ぶれから、時宗の決意の程が覗われる。  鎌倉幕閣の枢要に北条一門の血縁原理を導入して、得宗として君臨する事によって、その陣容をさらに堅固にしたのである。  「蒙古よ、来るなら来てみよ」 まさに万全の決意が、少なくとも鎌倉幕閣では、さらに固まった。
円覚寺・宝物風入れ  
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円覚寺・方丈・三ッ鱗紋鬼瓦(江戸期以前)  北条氏・家紋
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円覚寺・塔頭 続橙庵
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円覚寺・塔頭 黄梅院  (夢窓国師・塔所)
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