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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.15(07:00) 104

**蒙古の牒状と朝鮮半島情勢

**三別抄(sanbetusiyou)の乱

同じ頃、高麗では、重大な決定がなされていた。  江都から開京(現開城)に還都することになった。  三十年もの間、蒙古に蹂躙された高麗では、王族たちが難を避けるため、首都を開京から西岸海上の江華島に還していた。  これを江都といい、厳重に要塞化し、三別抄をもって守り固めていた。  さしもの蒙古兵も、これに手を焼いていた。  高麗が降伏して以降、何度となく開京に還都するよう要求され、王・元宗は、ついに承諾せざるを得なくなったのです。

元宗の十一年(文永七年・1270)五月、還都が決まった当日、これに反対した三別抄が決起。  しかし王族一行は予定どうりに江都を発って、開京に向かった。  そして三別抄の解体を決したが、三別抄は、将軍・裴仲孫(hai・tiyuson),夜別抄の指諭・盧永禧(ro・eiki)の二人を頭領として、ついに反乱を決起した。  江華島に残っていた王族の温(on)を国王に擁立し、官府を設けて官吏を配置したのである。    「三別抄の乱」 

しかし、三別抄は、至元八年(文永八年・1271)五月、珍島(tindo)で大敗し、本拠を移したが、なお抗戦態勢は維持されていた。

直後の九月、京都では事件が起こった。  鎌倉からの使者が上洛し、新着の高麗からの牒状だとして、関東申し次の西園寺実兼(sanekane)に一通の書状を提出」したのである。
高麗の船が、いつ、どこに着岸したのか、日本側にも蒙古の高麗側にも記録はない。  今までの例で考えれば八月上旬に博多に入港したものと思われる。 つまり、蒙古・高麗の使節一行ではない。  別の使節、実は三別抄からの牒状だったのである。

院の評定が続けて開催され、牒状の解釈を検討したが、誰にも意味は理解されなかった。  三別抄の存在を知らなかった公卿たちは、これを蒙古に従っている高麗からの牒状と考えていたから、とにかく文意が通じなかったのも、当然であった。

現在その牒状の写しを含めて残念ながら残っていないが、当時の日記などからその断片が引用されています。

蒙古の辮髪などの風習は、聖賢の憎むところなり。  また蒙古兵、必ずや貴国を攻めるべし。  されど我ら、蒙古の成戦の思いに従わず。  よって我ら、珍島に遷都す。 なれば我ら、米を求む。  また救援の兵員求むること、はなはだ切なり。

この牒状を日本側は、「これから貴国を攻めるぞ。 だから米を売ってくれ」 と解釈してしまった。  これでは理解できなったのも当然である。  ちなみに牒状は、まだ三別抄が珍島にいたときに書かれたものだった。 そして米を求めていたという事は、珍島陥落の一因に兵糧不足があったと思われる。

一方、京都朝廷では、三別抄の牒状を巡り議論が続いていた。  そしてしだいに返牒論に傾いていった。  これを知って激怒したのが、正伝寺の東厳慧安である。  その願文の末筆に 「すえのよの末の末まで我が国は、よろずのくにに、すぐれたり国」 ・・・。   そして三別抄の牒状を持ってきた船は、返牒を得ることなく、要領を得ぬまま帰ったと思われる。

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