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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.19(07:00) 105

**蒙古来襲と幕府の対応

**二月騒動

三別抄の牒使が去った後、入れ違いに到着したのが蒙古・高麗の使者(趙良弼・riyouhitu)だった。  文永八年(1271)九月、一行百余名が、筑前・今津浜に着岸した。   使者は、弥四郎という日本人を伴い大宰府に出頭した。

この時期、三別抄はまだ猛威を振るっており、その危険を犯して渡航してきただけに使者(趙)の決意は固かった。
牒状の引き渡しを迫る少弐資能(sukeyosi)・経資(tunesuke)父子に対して、  「日本国王並びに大将軍に直接に謁見を遂げ、我良弼、自ら牒状を献ぜん」 
と主張して、牒状を渡すことは無かった。  交渉は難航した。  だが良弼は牒状を渡すために来たのだから、渡さないわけにはいかず、 牒状の正文は渡せないが、写しだけを少弐氏に渡すことで交渉は成立した。

「この写し、汝、別人に渡す事あらば、我汝を斬るべし。  また汝、強いて我より正文を奪わんとせば、我この処に於いて、まさに自刃すべし」

と記された趙良弼の決意を示す書状が、添えられていた。

京都でも、議論が始まっていたが、返牒論が次第に優勢になっていく。  外国人に京都まで来られては迷惑だったからである。
原案を検討して、返牒文を決定した。   同時に京都周辺の大寺社に、異国降伏の祈祷が命じられた。 亀山天皇自身も、石清水八幡宮に行幸している。

京都・石清水八幡宮
石清水八幡宮
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直後に、鎌倉から早馬が京都に走りこんできた。  京都朝廷が、 「返牒あるべし」 と決定した事を知った時宗が、すぐに 「返牒のこと、しかるべからず」 と、言ってきたのである。  これで一挙に朝廷側は「返牒せず」に決定せざるを得なかった。  しかし鎌倉では、まだ朝廷側を信頼していなかった。  直ちに極楽寺流北条長時の子、赤橋義宗(yosimune)が、六波羅探題北方に任じられた。
京都には、六波羅探題南方として、時宗の兄北条時輔(tokisuke)がいる。  しかし時輔は、幕府の意向が 「返牒せず」 だと知っていながら、朝議が 「返牒する」 と決定されたのを阻止できなかった。 また阻止しようとはしなかったと、時宗に思われたのである。
つまりは、「時輔殿は、信頼できず」 という事になった訳である。  因みに六波羅探題は、北方が上位で、二十四歳になっていた時輔は、十九歳の義宗の下位に置かれる事になったのである。

趙良弼(使者)は十二月に入ると返牒を諦め帰っていった。
一方、時宗は、蒙古の襲来必死とみていた。  九州では少弐経資・大友頼泰(yoriyasu)の二人が、それぞれ分担する守備範囲を、さらに細分して管国の御家人たちに配分していた。 そして博多湾沿岸の防衛体制が整った。

しかし、水際防衛、異国撃壤という強硬意見の時宗に対して、蒙古が和親を求めているだけなので、これに応ずるべきという反対派もいた。  だが幕閣で基本政策が確固として打ち立てられていたので、反対派も反対論を口に出しては言えなくなっていた。 いきおい反対論は、陰謀とみなされた。

この陰謀は、和親返牒論の公卿数人が京都では北条時輔を推し立て、鎌倉では名越流北条教時(noritoki)を与党に加えようとする計画だと思われた。
陰謀の計画は、幕府に従順だった後嵯峨上皇の病状が悪化しているいま崩御という事になれば、大覚寺統の亀山天皇の親政となる。  その亀山天皇は、豪胆で自分の意志を貫く強硬派なので、当然、幕府の指示には従わず朝議は和親返牒を強行する事になるだろう。
もちろん時宗は、反対するだろうが、それこそ好機である。  違勅の咎という事で時宗を責め、天下の武士を糾合して鎌倉を攻めれば、得宗専制に反対している武士たちが、全国で挙兵すだろう・・・という妄想に近い策であるが、案外その様な事だったのかも知れない。

文永九年(1272)二月、陰謀は露見した。  時宗は素早かった。   討手の兵が鎌倉・名越の北条教時の館を急襲した、防戦の準備もなく教時はその場で誅殺された。  また、たまたまその場に滞在した兄・時章(tokiakira)が、誤殺されてしまった。  直後間違えて時章を殺してしまった大蔵頼季(yorisue)ら五人は、斬首されている。

直後、鎌倉からの早馬が京都に発った。  六波羅探題北方の赤橋義宗に、時輔誅殺の下知が下ったのである。  早馬は二月十五日の早朝、北方館に奔入した。  義宗の下知が緒方に下った。  北方館と南方館とは背中合わせで隣接している。  当然北方館での動きは南方館に筒抜けである。  この為、午後二時ごろ義宗勢が南館を攻撃した時、手痛い反撃を受けることになった。  しかし、所詮は、多勢に無勢だった。  時輔麾下も善戦したが、束の間の事だった。     (二月騒動)
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