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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.23(07:00) 106

**蒙古来襲と幕府の対応

**元寇前夜

後嵯峨上皇が五十三歳で崩御、大覚寺統の亀山天皇が即位、天皇の親政が始まった。  陰謀の与党が期待していた事だった。しかし、時輔はすでに誅殺されている。  同じころ趙良弼(riyouhitu)と張鐸(tiyoutaku)が再び来日。  五度目の牒状を持参したと思われる。
しかし朝廷では、議論は無かった・・・・・。  二月騒動の結果、国論は時宗の決定した通り返牒せずで一致していた。  同じころ鎌倉で異例の人事があった。  時宗の同母弟の宗政(munemasa)が、僅か二十歳という若さで、しかも引付を経験することなく、評定衆に抜擢されたのである。   二月騒動後の幕閣を、補強するのが狙いであった。

この間、博多まで来ていた、趙良弼は、もう強く返牒を要求する事は無かった。  そして年が改まった文永十年(1273)に帰国した。  高麗から元都に帰着し、すぐに日本の君臣の爵号、州郡の名数、風俗等について、フビライに報告した。  趙の二度目の渡航が、和親の返牒を得るのが目的だったとすると、今回の渡航は失敗したことになり、フビライは激怒するはずだった。  ところが、「汝の二度の日本渡航は成功であった」 と激賞している。 趙の二度目の渡航は、日本の内情を探知するのが目的だった。 既にフビライは、完全に日本遠征を決意していたのである。

実際、趙良弼が日本を偵察していたころ、フビライは日本遠征の準備に狂奔していた。   具体的には、良港獲得の狙いもあって、南宋占領に努めていたのである。
文永五年(1268)には既に攻撃を受けており、五年間も南宋が耐えてこられたのは、堅固な囲壁都市であった事と、重要だったことは守備兵のすべてが、守将・呂文煥(bunkan)を信頼していた事であった。

その囲壁都市(襄陽・jiyouyou)が最初に包囲された時、呂文煥は自分の妻子を差し出し、城内の兵糧の温存を図ったという。
しかし、文永十年、城の前面にフビライは巨大な投石器、回々砲(hui・huihou)を据付、この攻撃によって城は陥落寸前になっていた。  呂文煥は西湖対岸の南宋宰相・買以道(kaijidou)の許に、兵糧を求める使者を何度も発したが、援軍は無かった。
宰相に見捨てられた城内は日ごとに飢えていった。  この時フビライの書状が、城内に送られ、内容は 降伏を求める文書であった。  ついに呂文煥は降伏し城は陥落した。  この時、すでに惨殺されているとばかり思っていた妻子たちが、フビライの命によって生きていることを知った呂文煥らは感激した。 さらに、自分たちを見捨てた南宋の政府を見限り、フビライの南宋攻略作戦に協力を申し出た。

しかし、フビライにはまだ問題が残っていた、三別抄である。   南宋攻略よりも先に攻略しておかなくてはならなかった。 文永十年四月、 兵船160艘、兵員一万余で攻撃、鎮圧が完了した。  これで日本に通ずる朝鮮海峡は、安全となった。  日本遠征の準備は整ったのである。

文永十一年正月、フビライの命令が高麗に下った。   造船命令である。 僅か三か月の間に、大船300艘・軽疾舟300艘・給水舟300艘の計900艘の建造であった。
工匠・人夫とで35,000人が動員された、もちろん突貫工事で、手抜き工事であった。

その頃、日本では北条政村が連署を退き出家していたが、69歳で亡くなっている。   後任の連署として極楽寺流・北条重時(sigetoki)の六男・北条義政(yosimasa)が就任した。  だが、この連署就任まで、実に60日間かかっている、何事かが、幕閣にあったと思われるが良くわからない。

さらに、京都では亀山天皇が第一皇子の世仁親王(yohito)に皇位を譲った。 第91代の後宇多天皇(gouda)である。  亀山天皇親政が院政に代わっただけだから、本質的に変わりはない。 しかし、大覚寺統が二代続く事が問題であった。
持明院統の後深草天皇(gofukakusa)は怒りのあまり、出家して「上皇」 と言う尊号も返付し、護衛の随身も辞退すると言い出したのである。   国難を目前にして、天皇家は二つに割れてしまった。

同じ頃、高麗にいた洪茶丘(kou・sakiyuu)らに、「七月をもって日本を征すべし」 というフビライの命令が下達された。 フビライの命令では二万六千の兵をもって攻撃せよ・・・であった。
一方、高麗は、水手梶取や漕夫・雑役など、7000人を提供。  蒙古から来た者を含めると、これらの非戦闘員だけでも二万人を超えていたと思われる。

続いて指揮官の序列も、通達された。   全軍の総司令官にあたる都元帥には、蒙古人の忻都(kinto)・(モンゴルの武将)が指名された。  続く右副元帥は、高麗人の洪茶丘、左副元帥は北宋人の劉復亨。 その他に高麗が提供した6,000の別働隊で編成された。   予定より三か月遅れだが、三種合計で900艘の建造が済み、出撃準備が整ったことがフビライに報告された。

高麗王・元宗の死などによって、実際に遠征軍が合浦(gatupo)を出撃したのは、十月三日だった。   すでに日本列島は、台風の季節を過ぎたはずだったが・・・・・・。

西芳寺にて般若心経一巻・(写経)してきました
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西芳寺・庭園 ・・・・・・
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西芳寺4
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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