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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.11.27(14:00) 107

**文永の役

**壱岐・対馬

文永十一年(1274)十月五日午後、対馬西方の海上は、蒙古の軍船がひしめいていた。  午後四時ごろ対馬二島の中心で、国府のある下県島(simoagata)の佐須浦に数艘の軍船が接岸すると、1000人ほどの兵が上陸してきた。

すでに前回の来島で偵察を終えていた趙良弼(riyouhitu)の情報に沿っての行動と思われた。  午後六時、急報を受けた対馬・地頭宗資国(sukekuni)は、八十騎ほどを集め、松明を照らしての強行軍だった。 資国は、朝鮮語の話せる使者を送ったが、矢を射かけられ問答無用の戦争となった。  しかし、多勢に無勢である。 応戦はしたものの敢闘は長くは続かなかった。

一方、博多では、急使が出発し、京都・六波羅探題北方の赤橋義宗(yosimune)は急使を鎌倉に発すると同時に朝廷にも報告している。  翌日には亀山上皇の御前で評定があった。  博多湾の防備がさらに固められた様だ。

蒙古との戦いは、すべてが異様であった。  とにかく面食らう事ばかりだった。  蒙古兵は名乗りも聞かず、集団戦法だった。  名乗りを上げようとしたときには、蒙古兵に包囲されていた。 蒙古兵は、大部分が歩兵だったため騎馬の鎌倉武士が相手にしないと、馬の脚を攻撃し、落馬させ、多数で襲い掛かった。  歩兵集団の背後には騎馬の将校が居て、銅鑼や太鼓を鳴らしては、包囲、攻撃、或は退却などの指揮をしていた。

武器の点からも、蒙古軍の物は珍奇だった。  蒙古兵は長槍を持っていたが、鎌倉武士には槍は無かった。  また毒矢を使うという事も、鎌倉武士は行わなかった。  僅かな矢傷と思っていると、やがて全身に毒が回ってきた、そして特に鎌倉武士が手を焼いたのは、「てつはう(鉄砲)」 であった。

大きな鉄丸に火薬が詰められていて、これに点火して投げられ、金属製の筒から発射された。   直接的な殺傷効果は無かったようだが、爆発したときの爆発音は鎌倉武士を驚かせたのみならず、馬を驚かせ多くの武士が落馬したようだ。 落馬したところを敵の歩兵に殺された。慣れない戦を強いられた鎌倉武士は劣勢を余儀なくされた。

日本軍は、とにかく劣勢であった。  軽快な蒙古兵に比べて鎌倉武士の大鎧が重く、2時間くらいの合戦で疲れ果てていた。  夕刻になって、日本軍は大宰府に向かって総退却した。  途中の水城(mizuki)は長さ1㎞ほどもある。  かって天智三年(664)唐・新羅の攻撃に備えて天智天皇が造らせた土塁である。  日本軍は「水城に立籠って、大宰府を守らん」 という方針だったと思われる。  とにかく敗色濃厚だ、しかし蒙古軍は、日が暮れると軍船に引き上げていった。 日本軍の実力が判明し、夜戦を避けたのであろう。

その夜、猛烈な暴風雨が博多湾を襲った。 蒙古の軍船の多くは難破した。 乗っていた蒙古兵の大部分が溺死した。 戦死した者13,000人以上、船員などを含めた蒙古勢は46,000人、約3割が死んだ。 しかし、幹部の指揮官は大方無事であった。   この時期、十一月中旬の玄界灘では、強風は珍しくない。  後に神風と呼ばれることになるが、この強風は台風ではなかったと思われる。

蒙古軍は自分の意思で帰国したという・・・・・。   蒙古が派遣した兵士の数は、26,000人で、この勢力では日本を征服できないとの判断で、この「文永の役」 は威力偵察でしかなく、日本軍の戦闘能力を判定するという目的を達したので、蒙古側の判断で帰国したという説もある。
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