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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.01(07:00) 108

**弘安の役

**攻勢か防衛か・・・・・

文永の役に対する幕府側の最初の対応は、既に蒙古勢が博多湾から去った頃だった。
幕府はこの事実を知らず、安芸国守護・武田信時(nobutoki)に安芸国の防備を命じた。  危機が迫っていた九州防衛に向かわせなかった点が注目される。 北九州を占領した蒙古勢が本州に侵入して来る事に備えたのである。 瀬戸内海を東進すれば天皇家のいる京都はすでに目前だったからである。
同時に、これまでは幕府の指揮下にには無かった 「本所領家一円地の住人」 を糾合しようとした点も重要である。

*「本所領家一円地の住人」・・・・非御家人であって、鎌倉殿と直接主従関係のない武士の事

蒙古軍撤退後も現地の警戒態勢は、ゆるむ事は無かった。

同時期の南宋は滅亡の寸前にあった。  蒙古軍の総攻撃が始まったのである。 この攻撃に並行してフビライは、日本に向けて使節を送っている。
文永の役で敗れたとは、当然思っていなかった。  正使は礼部侍郎の杜世忠(to・seitiyuu)、副使は兵部朗中の何文著(ka・buntiyo)だった。  二月には南宋の首都臨安(rinan)が陥落している。  三百年続いた宋帝国が滅亡したのだ。

その様な状況下、杜世忠一行が到着した。  しかし博多ではなかった。  意外にも長門国・室津(murotu)だった。
まだ戦火の余尽が残る博多を避けたものと思われる。  しかし、蒙古に対する怒りや憎しみは、室津でもでも強かった。 一向はすぐに捕らえられ次々と斬殺された。 しかし、主だった五人と水夫数人が殺されずに、鎌倉に送られた。

弘安三年(1280)、時宗は、蒙古の攻撃対象と予想される国々の守護の更迭を行っている。
〇  肥前国・・・少弐資能➡北条為時
〇  豊前国・・・少弐資能➡金沢(北条)実時
〇  筑後国・・・大友頼泰➡北条宗政
〇  周防国・・・長井泰重➡北条宗頼
〇  播磨国・・・小山宗長➡北条時宗
〇  備中国・・・長井泰重➡北条時宗
〇  越前国・・・後藤基頼➡吉良満氏
〇  伯耆国・・・不明  ➡芦名頼連
〇  肥後国・・・不明  ➡安達泰盛

時頼本人を含め、北条一門が多く進出していることが注目される。  鎌倉からの下知がいち早く細部にまで浸透するようにと考えての処置だったのであろう。

文永の役の終了直後、今後の対応を巡って幕閣では、蒙古の再度の襲来を待っているより、逆に高麗を攻めようという積極攻撃論が台頭していた。   金沢実時・塩田義政ら北条一門の主張である。

これに反対したのが、専守防衛論を主張した外様御家人代表の安達泰盛らだった。  しかし、建治元年(1275)11月、攻撃論が勝った。  実時の三男・実政(sanemasa)が異賊征伐軍の指揮を執り、鎌倉を発って九州に向かったのである。
西海の諸国に水手梶取や兵船および兵員の調査が下知され、これに参陣する御家人の番役が免除されることになった。  さらに実政は名目上の指揮者で、実際は少弐経資(tunesuke)が指揮を執ることも内定した。

朝廷側は反対したが、久しく空席であった六波羅探題南方に佐助流北条時国(tokikuni)が任じられ、朝廷の反対論を封じ込めようとした。  翌年には時宗の弟・宗頼(muneyori)が初代の長門探題として着任している。   周防・長門の守護でもある金沢実政が高麗に出陣した後、その背後の兵站を守るという意味もあったと思われる。

この様に高麗遠征が具体化しつつあった時、先頭に立ってこれを主張していた金沢実時(sanetoki)が53歳で死んだ。  途端に積極攻勢論は、棚上げとなった。  そして熱心な攻勢論者だった赤橋義宗(yosimune)は、六波羅探題北方の任を解かれて鎌倉に帰っている。  専守防衛論を主張する安達泰盛の弟・時盛(tokimori)や塩田義政(yosimasa)も熱心な攻勢論者だったが、出家している。

時宗は、妻・堀内殿(horiutidono)の兄・安達泰盛の主張に従ったことになる・・・・・。
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安達泰盛・曾祖父盛長邸旧跡 (鎌倉・甘縄) 現・甘縄神明宮
安達盛長邸
北条時宗・産湯の井戸 (鎌倉・甘縄神明宮内)
時宗産湯井戸

丁酉・癸丑・壬戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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