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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.05(07:00) 109

**弘安の役

**専守防衛の徹底

積極攻勢論が棚上げされると、代わって浮上してきたのが専守防衛論だった。
具体的には博多湾の沿岸に沿って、要害石築地(isituiji)・(元寇防塁)を築くことである。  九州の九か国に、それぞれ分担する地域が、次のように割り当てられた。

〇  香椎地区・・・・・豊後国
〇  筥崎地区・・・・・肥前国のち薩摩国
〇  博多地区・・・・・筑前・筑後両国
〇  姪浜地区・・・・・肥前国
〇  生ノ松原・・・・・豊前国
〇  青木横浜・・・・・豊前国
〇  今津地区・・・・・日向・大隅両国


分担地区を割り当てられた各国は、これをさらに細分化して、その工事を御家人に割り当てた。  その基準は、所領一町に付き一尺、一反に付き一寸だった。  こうして遅くとも建治三年(1277)頃には、博多湾の沿岸地帯に要害石築地が完成した。

積極攻勢論が棚上げになり、専守防衛論に決定したという事は、北条一門の勢力が大きく後退し、代わって安達泰盛を代表とする外様御家人の勢力が大きくなってきた事を示す。
泰盛の子宗景(munekage)が検非違使の判官になったのも、その一例である。  そして泰盛自身は幕府の御恩奉行に就任、その権限には御家人の朝官推挙権まで含まれていた。
しかし、泰盛は、気を緩める事は出来なかった。

北条一門の勢力が後退した後、その穴を埋めるかたちで得宗被官勢力の代表、 内管領(naikanrei)の平頼綱(yorituna)が台頭してきたからである。  頼綱は、時宗の一子貞時(sadatoki)の乳母夫(menoto)でもあった。

専守防衛論政策が進む中、弘安二年には、対馬に異国船が来着した。  蒙古に降伏した南宋から、日本に降伏を勧めるため使節を送ってきたのである。  幕府は一行を博多に送って斬刑にしている。  すでに日・蒙間に和親などある筈が無かった。

この時期、無学祖元(mugaku・sogenn)が、時宗に招かれ日本に来ている。   祖元は「臨刃偈」(rinjinge)で知られる。
それは、蒙古兵が中国雁山の能仁寺に乱入した時、一人端然と座し、微動だにせず、兵が剣を振り上げて首を斬ろうとした瞬間、偈を唱え、、これを聞いた兵が感心して斬るのを止めそのまま立ち去ったという挿話として日本にも伝わっていた。  祖元の来日は、二度目の国難に立ち向かう時宗に、精神的に、大きな力を与えることになった。  反蒙古という形で、強い愛国心と決断力とを、祖元は時宗に与えたのである。

西国に飛び領地を持つ東国武士に、西国移住を奨励或は命令することは、文永の役以前から行われていた。  しかし、二度目の国難が迫る中、専守防衛論に立つ幕府の命令は、更に強化された。

博多湾近辺に東国武士が駐屯するようになったが、中には勝手に出撃して高麗の沿岸を襲う輩が出始めた。   これを「高麗史」は、「倭賊」・(wazoku)と呼んだ。   しかし、この襲撃は略奪、放火、殺人等は少なく、高麗側の損害は軽微であった。   「倭賊」の狙いは、明らかに偵察であり、情報収集であったと思われる。 次回へ               
日蓮上人・立正安国論撰述の地  鎌倉・安国論寺 (鎌倉・名越)の銀杏
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中世・鎌倉時代の墓(武士・貴族) 鎌倉では「やぐら」と呼ばれる (鎌倉・名越)
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現在発掘調査中
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丁酉・癸丑・丙寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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