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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.09(17:30) 11

後三年の役は、前九年の役で源頼義(yoriyosi)を支援した清原氏の内紛を、陸奥守・源義家(yosiie)・(八幡太郎)が介入し、一方の当事者清原(藤原)清衡(kiyohira)を助けて、かれを清原氏の後継者に据えることに成功すると云う兵乱。
この時の陸奥守・源義家の家人(郎党)として相模国住人・鎌倉権五郎景正・三浦平太郎為継(tametugu)の他山内首藤氏の名も見える。

寛治元年(1087)の金沢柵攻防戦で、義家軍は数万騎の勢力と、前代をはるかに凌ぐ勢力であった。  参戦した鎌倉権五郎景正や三浦平太郎為継は、「聞こえたかき武者」として知られ、地元では勇名をとどろかせていた「つわもの」として伝わる。
つまり、義家の代で清和源氏は真に武家棟梁と云われる存在となったのであり、彼の四代後の頼朝が東国武士を中核とする政権=鎌倉幕府を樹立する直接の基を築いたと云うべきであろう。

*三浦氏と清和源氏

三浦氏はどの代で相模国の「つわもの」になったのか、そしていつ頃、何がきっかけになって武家棟梁たる清和源氏に結びついたのか、という点を検証したい。
まず、為継の父とされる為通の注記に「三浦平太夫・長門守・従五位下」康平六年(1063)に源頼義より相模国三浦郷を宛行われ、衣笠山城を築き館を構え、はじめて三浦氏と称した。
注・別解釈在り
三浦氏居城・衣笠城本丸址石塔(横須賀市・衣笠)
衣笠城址本丸跡
三浦氏祖・村岡五郎良文公墓所(藤沢市・渡内、二伝寺裏山)DSCN1735.jpg

少し複雑になるが、三浦氏は、桓武平氏・高望王(takamotiou)の子孫で、村岡氏祖・良文の孫にあたる千葉氏祖・忠常と同族の間柄にある。
三浦義明は、三浦氏祖・為通から三代目で相模介義継の子である。  義明の弟には、岡崎氏祖・義実らがいる。  子には杉本氏祖・義宗、三浦義澄(yosizumi)、佐原義連(yositura)と秩父(畠山)重能の妻になった娘がいる。 その娘は畠山重忠の母である。
少々進みすぎ、清和源氏との関わりに戻ります、三浦為継の子相模守・義継(yositugu)の世代になると、源氏との関係は義家の子義親(yositika)の世代に清和源氏が東国に養った地方の兵との主従関係は消滅したとは考えられないが、ほとんど活動を都にうつしていたし、折しも政治情勢は摂関家を押さえた院(上皇)の実権が強まり、清和源氏に代わり伊勢平氏が、院政の常備軍である北面の武士の筆頭として頭角を現しつつあった。武家棟梁としての清和源氏の存在感が薄くなったのは事実である。 
しかるに、源為義(頼朝・祖父)の武家棟梁たる重みの低下と裏腹に、子の義朝は若いころは東国に根拠を置いて、その地の武士たちとの主従関係の再構築を試みていた。

三浦義継(yositugu)と源義朝(yositomo)の二人が同時に歴史上に名を連ねるのは、有名な大庭御厨(ooba・mikuriya)「乱入事件」においてである。  すなわち、義朝が大庭御厨の一部「鵠沼郷」は自分の支配する鎌倉郷に入ると称し俣野川を越えて御厨内に乱入したとされる。 この「乱入に」相模国田所目代や在庁官人など国衙関係者を動員すると同時に義朝の家人・郎党を始め三浦義継、同義明、中村宗平、和田助弘等、所従千余騎が御厨内に乱入したとされる。
義朝に関する情報として、鎌倉・扇谷の現在の壽福寺あたりに居住し、「上総曹司」と称し国衙関係者を動かせる立場にあった事です。
三浦氏と清和源氏との濃密な関係は、義継の子義明の世代に一段と顕著になる。
十二世紀後半、都では保元の乱(1156)、平治の乱(1159)と二度にわたって大きな兵乱が起きた・・・・。   兵乱を題材にした 「平治物語」の中に 「義朝の嫡子・悪源太義平は母方の祖父三浦の許にあったが、都に騒乱事件が起きるや、急ぎ上京す」 とあるように義明と義朝は姻戚関係にあったと思われます。    
(清和源氏系図)    (悪源太・義平は源頼朝の異母兄)

源義朝(yositomo)が「上総曹司」と呼ばれていた事についてであるが、義朝と上総国とを直接結びつける事は出来ないが、本人が直接関係ないとすると、母方の祖父・藤原忠清が上総の関係者かと思われるが確証はない。 ところが、幼い頃の義朝がある時期上総国内に住んでいた可能性があると考えられいる。  それは義朝が父為義(tameyosi)から安房国丸御厨を譲られていた可能性と上総介広常と三浦義明の間の密接な関係が存在するからだが・・・・。

これまでのように見てくると、三浦氏と清和源氏は、他の関東武士と比べても格段に固いきずなで結ばれていると言えるでしょう。
両者の間に婚姻関係があったとすれば、それは頼義室(太郎義家母)の父平直方(taira・nakta)以来であり、 後年三浦氏のライバルとなる伊豆の北条氏は、頼朝の世代でようやく、しかも偶然に清和源氏との婚姻関係が成立するのみである。  このような三浦氏と武家棟梁家と濃密な関係は、三浦氏が周辺の有力武士と同盟と対立の関係をとり結びながら中央武士へと発展して行く上で大きな意味を持つたのである。
      次回に続く

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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