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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.09(07:00) 110

**弘安の役
**日本軍の奮戦

弘安三年(1280)八月、大都のフビライの面前で、日本遠征軍の序列と基本戦略が策定された。  遠征軍は、大きく二軍に分かれていた。
高麗の合浦から出撃する東路軍と、中国・江南から出撃する江南軍とである。  東路軍の都元帥は、文永の役と同じく蒙古人の忻都(kinto)、右副元帥は高麗人の洪茶丘(kou・sakiyuu)、左副元帥は高麗人の金方慶(kin・houkei)。 蒙古人、旧北宋系の漢人、高麗人等合計四万、兵船は900艘。  

江南軍の都元帥は蒙古人の阿刺菅(arakan)、右副元帥も蒙古人の阿塔海(atahai)、佐副元帥は旧南宋の将軍范文虎(hanbunko)。  旧南宋兵十万、兵船は3500艘。

両軍は翌年五月に出撃し、壱岐島で合流し、全軍で一気に博多を攻撃すると決まった。  もちろん軍事機密で、一般には知らされなかった。  ところが日本側の情報収集の能力は意外にも優れていた。  攻撃の前年十二月に、時宗は次のような下知を、豊後国守護の大友頼泰(yoriyasu)に下している。

蒙古の異賊ら、明年四月中、襲来すべしと云々。  早々と分担の所に向い、厳密に用心を致すべし。  なお御家人ら、自身の宿意をさしはさみ、天下の大難を還り見ざる事の無きよう、充分に配慮すべし。

蒙古側の予定は「明年五月」 であった。  時宗の下知では、「明年四月」 であった。  この一か月のズレは、時宗がサバを読んだのであろう。  一か月遅れたら大変な事になるが、一か月早いのであれば問題はないからである。
いずれにしても時宗は、蒙古の関する情報を、早くから入手していたのである。  

時宗、フビライ共に不安を覚えていたのは、内部分裂であった。   無学祖元が時宗に次のように語っている。

本年の春・夏の間、博多が騒擾せんも、一風、わずかに起こり、万艦、掃蕩せん

先に時宗も大友頼泰に対して、「不和の事無く同心すべし」 と云い送っているが、同じことをフビライも気にしていたのである。  日本側では現地出身者と東国の武者、蒙古側では蒙古人・漢人・南宋人・高麗人、そして女真族など、それぞれ混成軍だった。

五月、東路軍は合浦を出撃したが、江南軍の出撃は遅れていた(元帥・阿刺管の発病)。  五月二十一日、東路軍の一部である高麗兵が、対馬に上陸した。  上陸地点は峰町佐賀の大明神ノ浦に比定される。    
高麗軍は日本側に降伏を迫ったが、日本側は降伏するはずは無く合戦となった。  高麗軍は朗将等若干が戦死したが、やがて日本軍は敗れて山中に逃げ込んだ。

二十六日、東路軍は対馬を去って、壱岐島・勝本に向かった。  壱岐島では合戦は無かった。  対馬の狼煙台の通報で、島民たちは山中に避難していた。   対馬・壱岐、そして大宰府と狼煙で伝わった警報は、やがて六波羅探題館に入った。

異国の兵船500余艘、対馬沖に襲来せり

急報は鎌倉に入り、朝廷にも伝わった。   六月に入り、東路軍が、博多湾に侵入した。  再度博多湾は、蒙古の兵船で埋め尽くされた。  しかし、すぐには上陸してこなかった。

玄海島・志賀島・能古島は、すでに占領されていたが、住民は本土に疎開していたから、人的被害は無かった。   九州の武士たちが割り当てられていた守備範囲は、石築地築造を分担した地域と同じであった。  全軍の指揮を執る小弐景資(kagesuke)は、博多地区に本陣を置いていた。

東国から馳せ参じた武士がその麾下にあった。  戦闘の展開如何では危険な場所に向かう事になっているから、いわば予備隊のようだった。

そして、日本軍の夜討ちが展開された。  先陣を切ったのは筑後の草野次郎経永(tunenaga)だった。  郎党らと小舟に分乗し、知り尽くしている塩の流れに乗って、夜討ちをかけ高麗船に乗り移った。  油断していた高麗兵と戦闘になり、これを破り、船に火を放って凱陣してきたのである。
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八代執権・北条時宗公菩提寺・鎌倉・円覚寺山門
円覚寺山門
円覚寺遠景(横須賀線)

丁酉・癸丑・庚午
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