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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.17(07:00) 112

**鎌倉中・末期の社会変動

**安達泰盛と得宗被官

二度の蒙古襲来は、何とか終わった。   しかし、三度目が予想された。  とにかくフビライは、負けたと思っていなかった。 その様な事から、再度の高麗遠征論が台頭してきた。  信濃国に籠居していた塩田義政ら北条一門が、勢力の挽回を図って主張し始めた。  元寇は一部の幕閣にとっては国内問題であった。  時宗が鎌倉を離れることが出来なかった理由の一つはそれであろうか?・・・・・。
また一部には、元寇という危機を時宗は巧く処理できなかったのではないか?・・・と見る向きもある。   これが現地に時宗が行かなかった事を根拠にしているとすれば、それは違うであろう。

かつて源平合戦のとき、一の谷、屋島。壇之浦は弟に任せて、頼朝は鎌倉を動かなかった。  承久の乱でも、北条義時は鎌倉にいた。  将に将たる者は、陣頭に立って指揮を執るというのではいけないとされる。  大局を見ていなければいけないと考えられている。

何れにしても高麗遠征論が再び昂まった弘安四年(1281)十一月、塩田義政が40歳で死んだ。  お陰で基本方針は、安達泰盛が主張していたように、専守防衛という事になった。  結果、泰盛の権勢は鰻登りになった。  普通ではあり得ない陸奥守に泰盛が任官した事などである。

弘安五年(1282)十月、他国の侵攻を予言した、日蓮が武蔵国・池上で死んだ。  61歳であった。
鎌倉では円覚寺が完成して、無学祖元が開山となった。 もちろん、北条時宗が開基である。  元寇での両軍の戦没者の供養が目的であった。  しかし、円覚寺は、すぐに時宗の廟所となってしまった。   とにかく時宗は多忙であった。  蒙古の三度目の襲来に備える事、戦功の有った者を行賞する事、そして幕閣の人事などを管掌する事、更には両統にに分立している朝廷の問題などが山積していた。  弘安七年(1283)四月四日、34歳で死んでいる。  法名は法光寺殿道果大禅定門。円覚寺奥の仏日庵に葬られた。

直後、一子貞時(sadatoki)が嗣立した。 十四歳。  安達泰盛と平頼綱(yorituna)との対立が激化する。  泰盛は貞時の外戚で頼綱は貞時の乳母夫(menoto)だった。

両者の対立は、日ごとに激しくなり火を噴いた。 弘安合戦、或は霜月騒動(simotuki・soudou)という。  泰盛ら外様御家人は倒され、頼綱ら得宗被官が実権を握った。  得宗専制は終り、御内専制(miuti)が始まった。

そして平頼綱も、永仁元年(1293)四月、得宗貞時(sadatoki)に倒されている。  一見、得宗専制が復活したようだった。  しかし、貞時の幕政改革も短期だった。 応長元年(1311)十月、貞時が41歳で死ぬと、また御内専制だった。

鎌倉幕府にも、末期症状が現れていた。  恐怖政治・弾圧政治・密偵政治、そして賄賂・讒言・密告・拷問が当然のように行われる。  最後の得宗・高時(takatoki)も一時は幕政改革に着手したが、所詮、時勢の流れには抵抗できなかった。  こうして幕府の混迷の度合いは、益々増していく。  討幕派が挙兵する以前に、事実上、鎌倉幕府は内部から崩壊していたのだろう。・・・・・・      あとがき      次回へ
丁酉・癸丑・戊寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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