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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.21(07:00) 113

**北条時宗の死

モンゴル襲来という難局は、武士たちの奮闘と大暴風によって乗り切ることが出来たが、時宗はなおも三度目の襲来を予想し、警備体制は緩めなかった。  一方で幕府は、戦後の恩賞問題に追われていた。  武士を戦場に駆りたてるのが恩賞であってみれば、戦功に応じた恩賞を与える必要があり、公平さを欠かさぬよう厳密に審議が続けられていた。

この時期、幕府の首脳部にあって、慎重にこの恩賞問題を主導していたのは、時宗の舅に当たり、時宗政権下での最大の実力者・安達泰盛であったと思われます。

時宗の時代は、鎌倉幕府政治の流れからいえば、執権政治から北条氏の得宗(北条氏嫡流家の当主)が権力を持つ得宗専制体制が確立された時期と言われる。
その為この時期は、得宗の被官(家臣)である御内人(miutibito)が、得宗権力を背景にその勢力を拡大していた。  時宗政権下ににおいて、得宗時宗を支えた御内人の代表が、平頼綱(yorituna)であり、頼綱もまた安達泰盛(yasumori)と並び大きな権勢を有していたのである。

泰盛と頼綱は、それぞれ得宗の外戚、御内という立場で、宗尊親王(munetaka)の追放後、時宗が目指す得宗権力が確立されるまでは、ある程度同一の歩調をとっていたように思われるが、しかし、その後得宗権力が確立されたころから次第に対立の方向を強めていったようだ。

安達泰盛が、この平頼綱と幕政の主導権を巡って対立しつつ、恩賞問題や新たな政治改革に取り組んでいた弘安五年(1282)ころ、禅宗に心酔していた時宗は、中国からの渡来僧・無学祖元(mugaku・sogen)の為に円覚寺(engakuji)の建立に力を注いでいた。  十二月に円覚寺は完成し、時宗は祖元を開山として迎えた。

国内外にわたって難問題を抱えていた時宗は、このころ、そうした場所で座禅をすることで、心の平穏を保っていたのかも知れない。
円覚寺・禅道場  「居士林」
禅道場・居士林
円覚寺・国宝舎利殿山門
舎利殿・門

その時宗が、弘安七年(1284)三月末に突然倒れ、4~5日、床に就いたきり神仏の加護もむなしく。四月四日に34歳の若さで多事多難な生涯を閉じた。  父時頼よりも三歳若死にであり、その死因も不明であるが、その背景には、僅か18歳にして執権になって以来、外敵の重圧や繰り返される北条氏一門の陰謀と誅殺、幕閣内の対立が激しく繰り広げられる状況の中で、時宗の心身は共に疲れ切っていたのではなかろうか?。

何れにしても、二十年にわたり鎌倉幕府政権の頂点に立ち、かつ北条氏の最盛期を果敢に生き抜いた時宗の突然の死は、幕府はもちろん朝廷にも大きな衝撃を与えた事と思われる。  朝廷は時宗の死による「天下触穢」・(siyokue)を30日間として、諸社の祭礼を中止し、また4か月に及ぶ殺生禁断を定めたという。

幕府では外戚安達泰盛を始め、評定衆・引付衆など重職にある者の大半が出家して弔ったという。  大きな衝撃を受けながらも、幕府政界では時宗死後の政局に向けて、泰盛を中心に早速対策が講じられた。    時宗には十四歳になる嫡子貞時(sadatoki)がいたが、様々な思惑がある中で、七月七日に泰盛の外孫にあたる貞時が順調に執権を継いだ。   この為、泰盛の権勢がさらに高まったことは言うまでもない。

それから約1年半、幕府の政治は、年若い得宗・執権の貞時を擁し、幕府の最有力者安達泰盛の主導の下で、弘安徳政と呼ばれる画期的な政治改革が行われた。      次回はこの政治改革についてレポートします。

丁酉・癸丑・壬午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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