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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.25(07:00) 114

**安達泰盛の政治活動

安達泰盛は、寛喜三年(1231)、安達義景(yusikage)の三男として生まれた。  泰盛の出自である安達氏は、泰盛の曾祖父藤九郎盛長(toukurou・morinaga)。鎌倉の甘縄神明神社前に安達盛長邸跡がある。
安達盛長邸
この甘縄が安達氏の拠点であった。   頼朝の乳母比企尼(hikini)の娘を妻とした関係で、幕府創業以前から頼朝に仕えた功臣であり、また信任を得ていた有力御家人であった。
祖父景盛(kagemori)・父義景(yosikage)は、北条氏の執権政治の確立に力を尽くし、宝治元年(1247)の宝治(houji)合戦では北条時頼と結んでライバル三浦氏討滅の正面に立ち、時頼政権の確立に貢献するとともに、自家勢力を大きく躍進させた。

その為、幕府内で安達氏に対抗する勢力を持つ御家人は見られなくなった。

*安達景盛・・・・源実朝の死を悲しみ、高野山で出家し高野入道と呼ばれた

こうした父祖の権勢を受け継いだ泰盛は、十七歳の時、父祖と共に宝治合戦(houji)に参加したが、政治活動の最初は、宝治二年(1248)に番帳丼御文清書役を務めたのがその始まりと言われる。
また早くから将軍・頼嗣の近習となり、建長五年(1253)六月、父の死後、安達一族の惣領となった。  その後引付衆に加えられ、父の跡を受けて武門の名誉とされる秋田城介に任じられ、康元元年(1256)には五番引付頭人兼評定衆に列し、以後長くこの地位にあった。
さらに文永元年(1264)十月から同四年(1256)四月まで、金沢(北条)実時と共に越訴奉行(oxtuso)を兼務した。

安達泰盛の政治活動で注目される点の一つは「吾妻鑑」 によると、泰盛は近習・格子番・廂衆(hisasisixyuu)などの将軍側近の一員としてしばしば名を連ね、鶴岡社参などの将軍の外出には常に供奉するなど、将軍の側近としての活動である。

またモンゴル襲来の際、肥後国の御家人・竹崎季長(suenaga)が、自らの戦闘活動を描かせた「蒙古襲来絵詞」 によると、建治元年(1275)、季長が恩賞獲得の為鎌倉へ出訴した時、幕府で恩賞奉行にあったのは安達泰盛であり、季長などの行賞に当たっていることが知られる。
この時の、季長の訴えが泰盛に認可され、勲功の賞として肥後国海東郷の地頭に任ずるという将軍下文と馬まで賜った様子が覗え、無足の御家人に対する泰盛の人間的な一面を知ることが出来る。

*無足の御家人・・・・様々な理由で所領を失った御家人

御恩奉行は、幕府でも重要な職で、実質的な権勢を握りうる地位にあり、泰盛がこの職を勤めていた事から見て、幕府における泰盛の実力者としての位置がうかがい知れよう。  

しかし一方において、泰盛は北条氏得宗家との姻戚を通じて得宗権力の中枢に関わる活動をしている事も注目しておく必要があろう。
そもそも安達氏の勢力が強固なものになった理由として、安達氏が、代々得宗家との密接な婚姻関係で結ばれていた事があげられる。  父義景(yosikage)の妹で泰盛の叔母にあたる松下禅尼(matusita・zenni)は、北条泰時の嫡男・時氏(tokiuji)に嫁して経時(tunetoki)(4代執権)・時頼(tokiyori)(5代執権)らの母であり、泰盛の妹堀内殿(horiuti)が時宗の正室となり貞時(sadatoki)を生んでいる。  安達氏が、いかに北条氏とのつながりが深いか理解できよう。


*松下禅尼・・・・執権時頼を甘縄邸に迎えた際、自ら障子の切り貼りをして倹約を教えたという挿話は有名 (徒然草)

*堀内殿・・・・父義景の死後は、泰盛の養女となった。 覚山尼(gakusanni)と称し、縁切寺として有名な鎌倉東慶寺の開基として知られる

鎌倉東慶寺・5代住職 用堂尼(後醍醐天皇皇女)・墓所・・・・東慶寺
五代用堂尼墓
東慶寺・本堂裏の岩絡み (毎年6月上旬に開花)  (鎌倉・山之内)
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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