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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.12.29(07:00) 115

**得宗専制体制への移行期・・

その時宗が執権であった時期の幕政は、執権政治から得宗専制体制への移行期にあたり、執権・連署が評定衆を主導して、評定所に於いて幕府の重要事項を合議決定するという形態が行われなくなり、時宗の私邸に於いて行われる寄合(yoriai)の席で、政務が決定されるようになった。

「吾妻鑑」 の文永三年(1266)6月20日条によれば、「相州(時宗)の御亭に於いて神秘の沙汰あり。相州・左京亮(政村)・越後守実時・秋田城介(安達泰盛)会合す。 他の者参加に及ばず」 とあり、後に寄合衆に発展する得宗私邸での重要秘密会議が開かれ将軍宗尊(munetaka)親王廃立を審議した際、寄合に泰盛が北条一門の北条政村・金沢実時と共に出席していることが知られ、泰盛が得宗権力の中枢に関わる活動をしていることは注目されよう。

宗尊親王も10歳で六代将軍に迎えられ在職10年に及んだ頃、御家人たちとの主従関係も緊密化し、次第に彼を中心とする政治勢力が形成されていたのである。  四代将軍九条頼経(yoritune)の時もそうであったが、名越氏等を中心とする宗尊親王将軍派の勢力が、得宗家に対抗する政治勢力となりつつあり、得宗時宗を脅かす危険性を持っていた事から将軍宗尊は追放されたのであろう。・・・・

この後、宗尊親王の子で僅か三歳の維康親王(koreyasu)が将軍に就任したが、それ以後の将軍も将軍としての権力を行使できず、将軍は権力を持てない名目上の存在と化して、将軍権力は得宗が掌握し、得宗が事実上の将軍になったといわれる。

宗尊親王追放後まもない時期に、得宗権力は、安定してきたと考えられる。   泰盛が、宗尊親王追放を審議する寄合に参加している状況からして、泰盛は一般御家人の代表といわれる一方で、得宗権力の推進者の立場であったと思われ、平頼綱とは、得宗権力のが確立し始めるまでは共存していたが、以降対立の方向を強めたように思わる。

さらに、泰盛の政治的立場は、将軍の側近であったと同時に得宗家とも親密な関係を保っていた事がうかがえる。  将軍と得宗という二つの権威は、泰盛にとって相反するものでは無かったのであり、それぞれ必要な権威であった想定される。

**泰盛と平頼綱(yorituna)

得宗の被官である御内人が、着実に勢力を伸ばしていた。  御内人の勢力が強まると、一般の御家人は、御内に対して外様と呼ばれるようになり、御内と外様の対立は激化していった。   此の御内勢力の代表が、内管領(utikanrei)の平頼綱であった。
得宗私邸での寄合に頼綱が安達泰盛と共に会合している記録が残っている。

評定衆に代る寄合の席に、得宗被官の代表者が参加し、強い発言力を持って政治的主張を展開する状況は、頼綱の権勢が強大化した事を意味する。  一方、外様の中心人物である泰盛は、時宗の外戚として権勢をふるっていたのである。


安達泰盛が、御家人の誇りをもって幕府の実権を握り、御内人勢力の政治的進出を阻止しようとする方針は、頼綱側の強い反発を招いた。  特に、従来、北条氏が世襲してきた陸奥守に泰盛が任官し、北条氏と同格となりうる権勢を幕府内に形成しつつある状況に、強い危機感を覚えたようだ
こうした御内人の危機感・反発を巧に利用したのが平頼綱であった。 次回へ

円覚寺・仏牙舎利殿石塔 (鎌倉・山之内)
佛牙舎利殿・石塔a>
仏牙舎利殿(国宝建築物)  (鎌倉・山之内)
舎利殿
円覚寺・正続院・禅堂  (鎌倉・山之内)
正続院(禅堂)

丁酉・癸丑・庚寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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