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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2018.01.03(07:00) 116

***明けましておめでとうございます。  今年も宜しくお願い申し上げます。    mituuroko***

**弘安徳政

幕府は貞時(九代)が執権についていた。  その後、外様と御内の対立が激化し霜月騒動に至る間、幕府は貞時の外祖父という立場から、安達泰盛が主導して「弘安の徳政」 と呼ばれた政治改革を断行した。

時宗の死後半年もたたずに、改革の綱領ともいうべき新式目三十八ヵ条が制定された。   制定者は安達泰盛と推定されるが、泰盛は時宗没後の政治的動揺に対処することを主眼に制定したのであろう。 

その内容だが、鎮西九国社領の売買の停止、鎮西九国の名主への御下文の発給、諸国国分寺一宮の興行、越訴奉行の設置等、政策的要素が多い。   これらの政策を実現するための具体的法令が次々に立法化されたのである。

新式目制定の目的について、研究者は前半十八ヵ条と後半二十ヵ条は奏上対象を異にしており、前半は得宗・北条貞時(sadatoki)、後半は将軍・源惟泰(koreyasu)を奏上対象とし、「得宗の地位を将軍に準じるものとして法的・公的に確立するとともに、将軍権威を再確認する事にあった」 との新たな見解を示され、さらに、安達泰盛の構想した政治体制は、源氏将軍の下で北条氏得宗が実権を掌握する体制であったと推定している。  

さて、安達泰盛が目指した弘安の徳政改革は多方面にわたるが、(1)一宮・国分寺興行令 (2) 関東御領興行令 (3) 悪党禁止令 (4) 倹約令  等10項目で、他に臨時の公事は御家人に課税してはならない、鎌倉を始め寺社の修造を行うなどの政策も発令されたとし、御家人を保護するものであるとされた。

モンゴル襲来を契機にこれまで弱体であった西国の本所一円地(honsixyo・itienti)に対する支配を強化させ、飛躍的に拡大した幕府の権限をどう定着させるかにあったからである。  具体的のは、戦闘に加わった九州の非御家人と寺社への恩賞問題の対応であったと考えられる。  

そのため幕府は、三人の引付奉行を九州に派遣し、九州の有力御家人大友頼泰(yoriyasu)等と組み合わせ「徳政御使」 として任務を実行させた。

対モンゴル戦に擁した戦費の調達の為に売却・質入れされた神領をすべて無償で神社が取り戻すというもので、モンゴル襲来時の祈祷という行為への恩賞の意味を持つものであり、関東下文により安堵するというものであった。  また、その時に新たに幕府の支配下に入った本所一円地住人たちの戦闘への恩賞の意味をもつものであった。   これにより幕府は、彼らの恩賞要求に応じながら、主従制──人的支配を拡大し、鎌倉政権の基盤を御家人のみならず、すべての武士階級へと拡大しようとしたのであろう。

こうした政策に端的に示されるように、泰盛が主導した弘安の徳政は、モンゴル襲来という脅威ののもとで、東国御家人中心の政権に過ぎなかった鎌倉幕府を、全国統治権力へと発展させる事をめざしたものと思われる。   しかし、こうした御家人制の拡大は旧御家人層の反発を招き、御家人層の分裂をもたらした。
さらに泰盛が主導した政治改革は、御内人、御家人の両方からの反発に逢って、ついに挫折し、泰盛の理想とした政策は実現しなかった。    次回へ
鶴岡八幡宮・一の鳥居  (鎌倉・由比ヶ浜)~本殿
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一の鳥居~本殿
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八幡宮・若宮大路~本殿
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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