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鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」

2018.01.15(07:00) 119

**「吾妻鑑」 欠巻・・・(散失)?

鎌倉幕府創成期以来の歴史を知るための最も根本的な史料「吾妻鑑」に関する研究の歴史は長いが、未だ未解決の問題は至る所に残される。    通計して前後十年間に及ぶ欠巻と散失の部分をどのように理解するかだ。・・・
「吾妻鑑」通読本・建久六年・・・正治元年
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たしかに一度は散失して多くの欠巻を生じてしまった事には何の疑問もない。   しかし、北条本系統の巻首にある目録に載せられている全五十二巻中、「第四十五巻・建長七年」 を、私たちが現在すでに見ることが出来ない。  「吾妻鑑」 は系統別に何系統かの書写本が存在する。

しかし、他の欠巻部分もこれと同じであったとして良いのだろうか。・・・?
幕府の創始者・源頼朝の死にまつわる、建久七・八・九年(1196~1198)の、三年間の空白。   次に京の院政政権との外交交渉、その成果である十月宣旨、挙兵以来の有力者・上総介広常(hirotune)の誅殺に見られるように幕府成立期の最も波乱にとんだ時期として重要な寿永二年(1183)の欠巻は見逃せない。
源頼朝像(青年期)・・・・鎌倉・源氏山公園
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頼朝・挙兵の碑・・・・伊豆の国市・願成就院
源頼朝挙兵の碑


そして北条氏執権政治の盛時を創りあげた指導的政治家・北条泰時の死亡年である仁治三年(1242)の欠巻。・・・・・
確かに原因のはっきりしない僧徒の乱闘や殺害が多発する騒動が鎌倉中に起り、幕府はその騒動を鎮圧したと記録に残される。

以上のような欠巻がはたして単なる偶然的な散失なのか、他に何等かの隠された理由があったかは、全くの謎である。    北条氏の執権政治を擁護する立場から「吾妻鑑」 を編纂する編纂者の作業は、真実の歪曲、美化、或は隠蔽という極めて困難な作業で有ったかは、容易に想像できる。

結果的に未完成のまま終わってしまい、欠巻となった事が大体想像できるが、もう少し欠巻部を調べて見る必要がありそうだ。  まずは建長元年(1249)の欠巻についてはどうであろうか、・・・特に大きな事件もなかったようだが、、強いて探せば、執権・北条時頼による訴訟制度の改革、幕府による引付の設置が挙げられるが・・・・・・。

次に正元元年(1259)、この正元という年号は単年で改元されている、なぜ単年で改元されたかは疑問である、推測してみると、前前年に起きた大地震により神社や仏閣,人家に大きな被害を受けていた。  その翌年には大洪水が起こり、家屋が流され溺死者が出るなど自然災害が頻発した。   年号を単年で改元した事と、自然災害が多発した事ととの因果関係はどの様に解釈するべきか?    
さらに「吾妻鑑」の欠巻との関りは・・・・・・。

弘長二年(1262)~文永元年(1264)  文永元年に執権・北条長時(nagatoki)が死亡している、代わって政村・時宗が執権・連署に就任した。   「吾妻鑑」の編纂と密接な関係があったとされる両者が、執権・連署就任に際して、将軍宗尊親王の廃立事件へと結びつく何等かの政治的権力闘争が想像されるが・・・・・・。

文永三年(1266) になり宗尊親王が廃され、宗尊の子、惟義親王(koreyosi)が任官した。     北条時宗・政村・金沢実時(sanetoki)・安達泰盛(yasumori)による「神秘の御沙汰」 が行われた。

この文永三年の記事で「吾妻鑑」 は終わっている。         次回へ

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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