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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.12(21:59) 12

*三浦氏と関東武士

三浦氏は相模国三浦郡に本拠を置く武士集団であるが、姻戚関係を含めた勢力範囲は、ほぼ南関東を覆っていた。  具体的には、東は房総の上総(上総介氏)・安房(安西氏)・・・西は相模大住郡(岡崎氏・土屋氏)・・・北は武蔵(畠山氏・横山党)の諸地域・諸氏である。
こうした関係とは裏腹に、相模武士である鎌倉党や波多野氏とは、必ずしも円滑な関係にあったとは言えないのである。これら周辺諸氏との様様な関係が、三浦氏一族のみならず関係の諸氏、また鎌倉幕府に結集した関東武士全般の動向に多大な影響を与えたことは、まぎれもない事実です。

*鎌倉党
三浦郡に隣接する鎌倉郡に本拠を置いた鎌倉党は、三浦氏にとって最も因縁の有る武士集団である。    「相武の武士団」・石井進先生著の系図によれば、桓武平氏高望王曾孫の世代で、相模国・鎌倉郡に定着した家系が三流あり、二系から後の梶原・大庭・長尾氏らが派生しており、一方で忠通の系統で為通・為継と続く三浦の系統は、いづれも「権大夫」「大夫」「権守(頭)」を称していることで、いづれも国衙関係者の称号であり、忠通の系統は長男為通も含め、早い時期に相模国衙の在庁職を手中にし、その権限を背景にその影響力は三浦郡・鎌倉郡・高座郡・大住郡まで発展している。
桓武平氏系図(藤沢市・渡内二伝寺石板より)
桓武平氏・系図
鎌倉党と三浦氏との関係は鎌倉党の内部が必ずしも一枚岩でなかった事もあって、複雑な様相を呈していたが、両者の間の同盟と対立の関係は、後に幕府が置かれ中世都市として発展する鎌倉の地を巡って、鮮明に現れてきている。
最近の発掘調査で現在の御成小学校から古来郡衙が置かれていたことが判明する木片等が発掘され、東海道が由比ヶ浜沿いに通っていたことなどから、鎌倉郡の中心的な小都市として発展していたと考えられるが、十一世紀後半に平直方(taira・naokata)が源頼義に鎌倉の地を譲ったとされて以来、武家棟梁清和源氏の関東における拠点となっていたと思われる。
鎌倉郡衙跡‣(現・鎌倉市立御成小学校・正門)
鎌倉・御成小

ところが、それ以前に鎌倉郡に土着した鎌倉党の内、権五郎景正の家系のものは、東海道沿いに鎌倉郷にまで勢力を伸ばし、後にその勢力圏は大庭氏(oobasi)が継承したと思われる。   古東海道が鎌倉郷に入る辺りに、景正(kagemasa)を祭る御霊神社が鎮座している。  また頼朝が鎌倉入りした直後に源頼義が創建した由井若宮を、由井から小林郷に移す事が決定したが、その奉行人に大庭景義が指名されている。
つまり、鎌倉党大庭氏は名字の地である高座郡大庭御厨の南西部から鎌倉郷に至る間の東海道地域を押さえていたと想像されます。

これに対して三浦氏の方は、本拠地三浦郡から北方に進出し、後に都市鎌倉の有力な外港となる武蔵国久良岐郡(kurakigun)六浦から朝夷奈を越えて鎌倉郡に至る六浦道沿いの地域を手中に収めるようになり、義明の代にはこの地域はおおよそ嫡子・義宗(和田義盛の父)に譲られていたものと思われる。
このように三浦氏が鎌倉党の縄張りにも等しい鎌倉郡に進出できた理由の一つは、頼義以来鎌倉郷に利害を持つようになった清和源氏の後ろ楯があったからであろう。
相武武士団・三浦氏による若き義朝の養育そして鎌倉館の造営も、そうした清和源氏と三浦氏の鎌倉をめぐる緊密な関係を表している。 こうした清和源氏・三浦氏連合の鎌倉郷への進出は、鎌倉党・大庭氏との利害の対立を生んでしまったのだ。
天養年間に起こった大庭御厨乱入事件の背景にも、上記のような両者の利害の対立があったことは充分考えられる。  さらに、大庭御厨事件当時、大庭氏の内部で景宗・景親(kagetika)親子と景義(kageyoi)との間に対応の相違が生じ、後者が源頼朝・三浦義明連合に妥協的な態度をとった結果、鎌倉については大庭氏の権益は景義が掌握し、義朝・義明側との勢力均衡がたもたれた。
後に源頼朝によって起こされた鎌倉幕府の警察機能を担った侍所の首脳として別当・和田義盛、 次官・梶原景時が並んで任命され、大庭景義が鶴岡八幡遷宮の奉行を認められ、ここでも均衡状態は保たれた。  次回に続く

丙申・庚子・戊戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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