FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉幕府の歴史書

2018.01.19(07:00) 120

**「吾妻鑑」の編纂者は?

「吾妻鑑」 はいつ、どの様な人によって編纂されたのでしょうか。  正確には不明である。  多くの研究者が論文を発表しているが、決定的な結論はまだ出ていない。
ただ北条氏一族周辺の関係者が関わっている事は、まず間違いないようだ、それに金沢文庫周辺の関与も疑いのない所だ。

「吾妻鑑」 のⅡ期に分かれての二段階編纂説は定説となっている。    源氏三代の将軍記(1264~1275)とそれ以後の将軍記は(1290~1304)頃の成立と考えられている。 この二段階変遷説の根拠は、源氏三代記の記事と藤原将軍・宗尊将軍の記事とを比較して、記録の態度が大きく異なっている点にあるらしいが、それを裏付ける根拠はあまり無いようだ。

「吾妻鑑」は50巻を超える長編の書物であって、編纂には相当の年月がかかったように思われ、成立の時期を特定する事は難しいとされてきましたが、前後の史料から推定して大体同じような時期の成立と見られています。

編纂時期に関する様々な資料・情報を得るために「吾妻鑑」の原資料と思われる「明月記」 の記事などが関係者の手にあった時期を考えてみると、 「明月記」 を藤原為家(tameie)から伝えられた冷泉為相(tamesuke)は所領の紛争などで鎌倉に滞在することが多く、訴訟関係、または和歌や蹴鞠の関係で、幕府の奉行人とも関りは深かったと思われる。
その為相が幕府に二条為世との所領訴訟を起して裁許を得たのは正応二年(1289)、さらに正和二年(1313)にも再度の裁許を獲得している。 先に推定した編纂の時期はここに含まれている。

こうして編纂の時期は十四世紀初頭と特定されてきたが、・・・それでは編纂者は誰だったのでしょうか。
すでに「明月記」の利用などで三善康信(yasunobu)・康連(yasutura)の子孫は間違いなく関与していると考えられている、その子孫で該当するのは太田時連(tokitura)と思われる。
時連は弘安六年(1283)に父の跡を継いで問注所執事に十五歳で就任、途中交代した時期もあったが元亨元年(1321)まで執事の任にあったようだ。   その活動で注目されるのは、永仁元年の評定衆、同四年の寺社奉行、正安二年(1300)の引付頭人、延慶二年(1309)の寄合衆への就任である。
寺社関係の文書や六波羅関係の文書を入手・閲覧する機会は充分にあったと考えられる。父の太田康有には「建治三年記」 と呼ばれる日記の抄録があり、さらに自身も「永仁三年記」 を記していて、室町幕府にも仕えている。 「吾妻鑑」の編纂には近い人物と言える。
太田時連・15歳で就任した問注所旧蹟  (鎌倉市・御成町)
問注所石塔
次に注目したいのは二階堂氏である。  「吾妻鑑」 が二階堂行光(yukimitu)について特筆した記事が多く見られ、そうした顕彰記事の作成に関わった子孫も編纂に関係したと考えられる。    承久三年(1219)行光が死亡した後を検証していくと、代わって伊賀光宗(mitumune)が政所執事に任じられたが解任され、行光の子行盛(yukimori)が執事に補任されている。  以後政所執事は二階堂氏に継承されていった。
正安年代の政所執事の職にあったのは二階堂行貞〈yukisada〉(正応三年・1300就任)であり、この頃が「吾妻鑑」 の編纂に最も相応しい時期という事になる。
次に大江広元について調べてみた、先ずはその子孫を探ってゆくと長井宗秀(munehide)という人物の存在が注目された。  永仁三年に寄合衆・評定衆、正安年間(1299~1302)に引付頭人等を歴任している。そして宗秀の子・貞秀(sadahide)には、京都の金沢貞顕(sadaaki)に宛てた「鎌倉治記」・「六代勝事記」 の借用についての書状が残っている。   この両書は「吾妻鑑」 の原型となる書物とされており、金沢貞顕との関係が見えてくる。
長井宗秀の始祖・大江広元邸旧跡    (鎌倉・浄明寺)
大江広元邸跡
長井貞秀は延慶二年(1309)に死亡しているので、貞顕の六波羅探題在任期間から「吾妻鑑」 はその頃には完成(終了)したと考えられている。
15代執権・北条貞顕公墓所     (横浜市金沢区・称名寺)
DSCN2386.jpg
延慶二年(1309)の寄合衆メンバーが「金沢文庫古文書」 に残る書状から判明しているので列記する。   
〇 北条師時(morotoki)      (10代執権)
〇 大仏宗宣(munenobu)     (11代執権)
〇 北条煕時(hirotoki) (12代執権)
〇 金沢貞顕(sadaaki)       (15代執権)
〇 安達時顕(tokiaki)       (外様)
〇 長井宗秀(munehide)     (官僚)
〇 太田時連(tokitura)      (官僚)
〇 長崎高綱(円喜)        (得宗被官)


こうした事からも 「吾妻鑑」は十四世紀の初めに太田時連などの得宗周辺が編纂した幕府の歴史書であるとの認識でよいと思われる。
「吾妻鑑」 は文永三年に、将軍・宗尊親王が京に追われた事で終わっているが、これを契機にして幕府の体制は新しい段階を迎え、文永・弘安の蒙古襲来に見舞われ、幕府内部に抗争が起こり、政治が迷走することになり、それを記録する事は困難だったに違いない。     次回へ

戊戌・甲寅・辛亥
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<鎌倉幕府の歴史書 | ホームへ | 鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する