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鎌倉幕府の歴史書

2018.01.27(07:00) 122

**「吾妻鑑」の欠巻  (Ⅱ)

 「吾妻鑑」に欠巻がある事は既にレポートしたが、もう少し詳しく調べてみる事にした。
まずは将軍・頼朝の死亡記事の欠落から・・・・・・。
武家政治を開き、鎌倉幕府の初代将軍として活躍した源頼朝は、京都の資料によると正治元年(1199)正月五十三歳で死亡している。  死因は相模川の橋供養に臨んだ帰途、落馬した事が原因で死亡したことになっている。  これは、  「吾妻鑑」 建暦二年(1212)二月条の記事によるもので、死後13年後の記事である。
源頼朝の法華堂跡   (鎌倉・雪の下)
頼朝・法華堂

建久七年(1196)正月から正治元年(1199)正月までの3年1か月間の記事が無く、頼朝死亡の翌日から再び記事が表れる。
幕府における頼朝の存在から考えると、当然記載されているべき将軍の死亡記事が「吾妻鑑」 に無いのかは、素人目にも不自然であるが・・・。

現存の写本の体歳から考えると、巻45(建長七年・1255)の様に1巻分の記事が脱落(紛失)してしまった場合とは異なり、巻15(建久六年条)・・巻16(正治元年条)となっており、建久七年正月~正治元年正月条は原本に在ったものが写本の時点で脱落したものではなく、明らかに原本が無かったことになる。

建久三年(1192)に後白河法皇が崩じて院政の中心が失われ、名実ともに廟堂の首班となった九条家(兼実)は、頼朝の為に征夷大将軍の宣下を取り計らった。   これは頼朝が望んでいたにも関わらず、後白河法皇の勅裁が下りなかった為である。

建久六年(1195)頼朝は奈良東大寺再興の落慶供養に臨むため、二度目の上洛を行った。 頼朝と朝廷・九条兼実が両軸となってその全盛を誇っていた。    兼実は既に女(娘)任子を入内させていたが、頼朝も丹後の局(tango)に接近・連携し大姫入内運動をしたような見解が最近承認されつつある。 (結果的に大姫の入内は実現しなかった)
一方、故後白河法皇の近臣たちは土御門通親(mititika)を中心に権勢回復策を進めていた。

兼実が期待をかけた女「中宮・任子」 の妊娠・出産は皇女であったのに対し、「後宮・桂子」 ・(土御門通親の女)は第一皇子を生んだ。   これに勢力を得た通親は後白河の寵妃・丹後局等と謀り、兼実の排除策を講じ、建久七年(1196) 関白・九条兼実 を解任したのである。  同時に弟の太政大臣・兼房や天台座主慈円(jienn)の地位も奪った。    

建久八年(1197)に譲位の事を幕府へ通告し、その不賛成を廃して準備を進め、翌九年正月に土御門天皇が誕生したのである。
この様な時期に頼朝は三度目の上洛を計画し、朝幕間の諸問題打開を図るべく準備をしたが、その途中での事故(?)であり、目的を達することなくの死亡である。 「吾妻鑑」の欠落時期にあたる建久七年から正治元年正月の頼朝の死に至る三年一か月間は幕府は、最大の危機に直面していたわけである。   「吾妻鑑」の編纂者が、この時期を故意に記述しなかったのか、記述できなかったのか、或は編纂後に何等かの理由で削除したのか、そして頼朝の死因は何であったのか、真相は謎のままである。
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