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鎌倉幕府の歴史書

2018.01.31(07:00) 123

**「吾妻鑑」の構想

  鎌倉幕府と呼ばれる新しい政権が誕生した。   その政権を理解するうえで注目すべき歴史書が「吾妻鑑」 だ。
「吾妻鑑」は治承四年、以仁王(motihitoou)の令旨が下されたところから始まっている。

その以仁王の令旨が伊豆国・北条館に源行家(yukiie)によって持ち込まれた、その席に北条時政(tokimasa)が同席していた事から始まる。
北条時政公・墓所    (伊豆の国市・願成就院)
北条時政公墓所(願成就院)

「令旨」 「頼朝」 「時政」 の結びつきは、正当性のシンボルと、東国に下ってきた貴種と、東国の豪族的武士の三者の組み合わせが、結合したものであって、何れを欠いても、鎌倉幕府は成立しなかったと考えられている。
しかし、令旨と頼朝はともかく、他の豪族ではなく時政がそれらと結びついている点に「吾妻鑑」 の意図がうかがえる。   北条時政から始まらなくてはならない必然性はないと思うが、・・・・他の豪族ではならなかったのだろうか。

挙兵は一旦は成功した。・・・・しかし、間もなく石橋山で敗れている。  以後その地の豪族に助けられながら房州にさらに武蔵を経て鎌倉に到着している。  その豪族とは土肥・三浦・千葉・上総・秩父の諸氏である。
土肥氏一族・墓所   (静岡湯ヶ原・成願寺)
DSCN1075.jpg

「吾妻鑑」 の中で頼朝の器量が認められる処となり、東国の主に成長していったように記述されているのだが、他の豪族の其々にとっても、令旨を帯した頼朝との出会いは重要な意味を持っていたはずである。


●  吾、源家累代の家人也、幸いにも貴種再興の時に逢うなり・・・・・。  (三浦氏)・(三浦大介)
● 源家中絶の跡を興せし給うの条、感涙眼を遮る、言語の及ぶ所に非ず・・・・・。 (千葉氏)
● その形勢,高峻の相(sou)無くんば、直ちに討ち取り平家に献ずべし・・・・・。 (上総氏)

衣笠城主・三浦大介公戦没の地     (横須賀市・衣笠)
三浦大介戦没地

 「吾妻鑑」 に記された頼朝との接触の情況は、もしそれぞれの豪族が後に滅ぼされる事無く、幕府内に於いて実権を有する立場に有ったとすれば、其々の豪族における「吾妻鑑」が存在したと推測される。

元来東国の豪族が都から下ってくる貴種を迎える事は広く行われてきた。   頼朝の父義朝(yositomo)を房総半島に迎えたのは上総氏であった。   義朝が下総国・相馬御厨(mikuriya)に乱入した時、その後ろには上総常時(tunetoki)がいたと云う、また義朝が相模国・大庭御厨に乱入した時、義朝は「上総曹司」 と呼ばれていた。  その後、相模国・鎌倉に迎えたのが三浦氏である。

*相馬御厨・大庭御厨・・・・何れも平安時代後期・伊勢神宮に帰する領地。   (地元豪族が管理)

鎌倉・亀ヶ谷に居館を構えた義朝(頼朝父)は、三浦氏との娘との間に「鎌倉・悪源太」 義平(yosihira)を設けた。
東国の豪族の「家」 が都の「貴種」 との結びつきで、起こされた事と良く関係していよう。   北条の家も頼朝を迎えた時に始まるのである。

頼朝の挙兵から南関東への進出は、多くの家々を生み出す効果があった。   またその家々が連合して貴種を擁して作り上げたものが幕府と云う「武家」 の権力なのであろう。
初期の幕府は南関東の家々だったものが、東国15ヵ国へと広がり発展してきたのだ。

 「吾妻鑑」 は、その家々の中心的存在に位置したのが北条氏であると主張している。
これまで、良く知られているように将軍家の関係者と共に、北条氏についても「北条殿」 ・「北条主」 ・「江間殿」 等の敬称を付けて現わされている。
鎌倉幕府は東国の家々を代表する北条氏と、令旨を帯した「将軍」 頼朝と共に成立したというのが「吾妻鑑」の主張だろう。 次回へ

戊戌・甲寅・癸亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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