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幕府滅亡

2018.02.12(07:00) 124

**権力の空洞化

  全国に波及した霜月騒動(弘安合戦)の結果、幕府は御内人(miutibito)集団の手中に転じた。
弘安合戦は、惨烈を極めた。    指揮したのは若年得宗・貞時(sadatoki)を擁した得宗家執事の平頼綱(yorituna)だった。  後に出家して平禅門(zenmon)と称した。
その政治は極めて惨烈だった。  頼綱が布いた恐怖政治は徹底していた様だ。
 その頼綱が意外な事をしたのは、弘安十年(1287)だった。  さきに臣籍に降って源惟康(koreyasu)となっていた将軍を、皇籍に戻すよう朝廷に願い出たのである。  もちろん、すぐに勅許が下り、七代将軍は二品親王となった。
自分が戴く将軍が皇族という事で、頼綱は自分の権威付けを図ったのかも知れない。

 正応二年(1289)突然、将軍惟康親王が更迭され京都に追却されたのである。   代わって持明院統・後深草上皇の第六皇子、久明親王(hisaakira)が、八代将軍として下向してきた。  これも頼綱を首班とする御内専制政権に、何ほどかの権威を与えたかもしれない。 

 同じように頼綱は、主君・貞時(sadatoki)にも、箔をつけようとしている。  将軍の代替わりの前、既に19歳で正五位下となっていたが、半年後には従四位下に昇叙されている。  これは破格の事で、かつての義時(yositoki)の従四位下、泰時(yasutoki)の正四位下を除いて歴代の得宗は正五位下であった。
頼綱は貞時に、この壁を超えさせたのである。
北条義時公(第二代執権)法華堂跡   (鎌倉・雪ノ下)
義時・法華堂跡
北条泰時公(第三代執権)墓碑    (鎌倉・大船常楽寺)
泰時公‣墓石

*御内人による恐怖政治

外様御家人たちを怖れさせたのは、頼綱が御内人に彼らを指揮監督させた事だった。
九州統括の為博多に置かれた鎮西談議所は、少弐(siyouni)、大友、宇都宮、渋谷など、外様の御家人が奉行であった。  その奉行たちが密告され、実情調査の為、御内人が九州に派遣されるような事態になっていた。

また、寺社と京下りの訴訟事務が渋滞しているとの訴えに、引付衆や奉行は急ぎ判断する様に命じられた。  この時、長崎光綱(mitutuna)等5人の御内人に勤怠を監督する権限が与えられた。
このような例は、泰時(yasutoki)の巡察使、時頼・時宗の廻国使に連なるものだろう。   引付衆や奉行ですら指揮監督されたのだから、一般の外様御家人に対しては、さらに厳しかったと思われる。

この様な強権を振るう御内専制の首班が、得宗貞時を擁する平頼綱だった。   当然のことながら彼の権力は、極めて強大であった。   彼の権勢について「平左衛門(頼綱)入道、驕りのあまりに、(略)今は更に貞時は代に無きが如く成りて」 と噂された。

しかし、頼綱の執政期に施行された法令などから、頼綱が得宗貞時の権力強化に尽力した事は明白である。

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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