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幕府滅亡

2018.02.16(07:00) 127

**権力の空洞化

**最後の幕政改革

 いかに平頼綱の権勢が強大だったにせよ、それは得宗・貞時を擁していたからに他ならない、貞時が若年だったからだ。
得宗になった時14歳だった貞時も、九年たった永仁元年(1293)には23歳の青年になっていた。
 当然、自分の身分や立場も理解出来る存在になっていた、自分なりの幕政改革の理想も心に描いていたでしょう。  その理想を実現しようとすれば、必然的に頼綱と衝突する事になる。

そして永仁元年4月、事件が起きた。   頼綱の長男・宗綱(munetuna)が、父頼綱と弟飯沼資宗(sukemune)との陰謀を密告してきたのである。
頼綱は資宗を将軍にしようと謀ったようだ・・・・・。

何れにしても貞時は、果敢であった。   謀議が発覚すると同時に北条一門の武蔵七郎などの討手を、頼綱父子の邸宅(経師ヶ谷)・(材木座二丁目)に差し向けた。  頼綱‣資宗父子は邸宅で自害して果てたという。
また、一族郎党九十三人が、燃え盛る邸宅と共に討ち死にした、中には貞時の娘二人も含まれている。       (平禅門の乱)

*平禅門(heizenmon)・・・・平頼綱の法名

父と弟とを密告して出た平宗綱は、佐渡に配流になったが、後に許されて鎌倉に戻っている。

頼綱を倒して実権を回復した貞時は、青年らしい潔癖さで、幕政の改革に着手した。  直後に出された法令は、頼綱執政期の失政を匡事を狙ったものであった。

まず評定衆、引付衆、奉行などに収賄を禁じて綱紀の粛清を図り、裁許の迅速化を目指し、領家・地頭間の中分を勧めて寺社や公卿との矛盾の減少に努め、無足になっていても三代以前に御家人であれば、御家人として認めようとした決定だ。

*無足・・・・領地を失った御家人

貞時が次にとった政策は引付を廃して七人の執奏を置き貞時自身が政務を直談する事になった。
●  政村流・北条時村(tokimura)
●  名越流・北条公時(kimitoki)
●  金沢流・北条顕時(akitoki)
●  大仏流・北条宗宣(munenobu)
●      北条師時(morotoki)・・・・時宗弟・宗政(munemasa)の嫡男
●       宇都宮景綱(kagetuna)
●  大江氏・長井宗秀(munehide)


かつて弘安合戦直後に下総に配流されていた金沢顕時が返り咲いているように、北条氏一門の勢力が回復しているのが目立っている。

何れにしても得宗の政務直断は、先例の無い事だった。  さすがに引付制度は翌年には復活するが、貞時の重要政務直断制には、変わりはなかった。 貞時の独裁と言う事である。

貞時の実権回復と幕政改革とは、一般からは評価を得たらしい。  頼綱の恐怖政治下で出されなかった訴えが続出した様だ。
何れにしても貞時の政治は、御家人保護を基調としていた。 永仁五年(1298)に出された徳政令が有名な「永仁の徳政令」 である。
弱小御家人が売却、或は質入れした所領を、無償で取り返しても良いとした条文を根幹としたものであり、さらに御家人所領の売買質入れの禁止、及び利息関係訴訟の不受理なども定められた。

ちなみに蒙古襲来前の文永年間、北条時宗は、借りた額だけ返済すれば利息無しに質流れした所領を取り返してよいとし、さらに文永の役前には、借金を返済せずとも質流れした所領を取り返してよいと定めている。
貞時の出した徳政令は、以上の二例の延長上に位置するもので、質流れ所領の取り返しを御家人のみに認めて、貧窮御家人の救済を図ったのである。
八幡宮参道・段葛石塔  (鎌倉・雪ノ下)
段葛
八幡宮・二の鳥居 (鎌倉・雪ノ下)
二の鳥居

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