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幕府滅亡

2018.02.20(07:00) 128

**鎌倉幕府・滅亡へ

**北条高時元服

 永年の幕政改革の努力に疲れ果てたのか、夭折する子らの不運続きにヤケを起したのか、原因は判らないが、政務を放棄し、連日酒宴を催し、贅沢をして暮らすようになった。

いずれにしても世情は、すでに騒然たる状況を呈しつつあった。   天下に悪党が横行し、天皇家は持明院・大覚寺両党に分立して争っていた。

延慶二年(1309)正月、ようやく生き残った四男成寿丸(seijixyumaru)が、七歳で元服して高時(takatoki)と名乗った。  
この時までに兄三人はみな夭折していたのである。
一見、政務を放棄してしまったかのような貞時であったが、幼息高時の為にには、それなりの布石は打っていたようである。  高時の乳母夫の長崎高綱(takatuna)を重用して、早くから得宗家執事に登用した上に、幕府の公職である侍所の所司にも任じている。
また高時を早くに結婚させたのも、布石の一つだったかも知れない。 元服した直後に、高時は結婚したらしいのである。  高時の岳父として高時を支える任を与えられたのは、安達時顕(tokiaki)だった。

つまり、長崎高綱と安達時顕の二人が、来たるべき高時政権のブレーンたるべく、貞時は手を打っていたのである。

この頃の、寄合衆の構成は次のような顔ぶれであった。

〇 得宗・北条貞時
〇 執権・北条師時
〇 連署・北条宗宣
〇     北条煕時(hirotoki)
〇     北条貞顕(sadaaki)・(金沢)
〇     長井宗秀
〇     安達時顕      
 以上七名

時頼の頃の寄合衆は、四人程度であったが、七人に増加している。   また奉行が一人、合奉行が二人いて、組織も整ってきたことが解る。
七人のうち一人は得宗であり、四人は北条一門で、一人は高時の岳父である。 これは北条一族の支配原理がそのまま幕閣に導入されたに等しい。  しかも合奉行二人というのは長崎高綱と尾藤時綱、共に御内人であった。

*長崎高綱・・・・延慶年間(1308~10)には出家して法名を円喜(enki)と名乗り世間は「長入道・長禅門」等と呼んだらしい。

しかし、高綱(円喜)が幕政に関与し続けた事はもちろんである。

何れにしても、貞時が連日酒宴に耽ったとしても、幕政が充分機能するだけの体制は出来挙がっていた。  この体制は、そのまま次期政権・高時の時期に引き継がれる事になる。

 応長元年(1311)十月、北条貞時は死んだ。   41歳。 廟所は父時宗と同じで、鎌倉・円覚寺の仏日庵(butunitiann)である.。
鎌倉五山第二位円覚寺・仏日庵(北条時宗・貞時父子の廟所)
DSCN3342.jpg
DSCN3343.jpg

死に臨んで、貞時は長崎円喜と安達時顕の二人に高時や世事を二人に託したという。   得宗の座を嗣立した高時は未だ九歳、政務の実権は得宗家執事の長崎円喜、高時の岳父である安達時顕とが、北条一門で固められた寄合衆を領導して、幕政を運営する事になる。

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