FC2ブログ

タイトル画像

幕府滅亡

2018.02.24(07:00) 129

**鎌倉幕府・滅亡へ

**北条高時執権となる

正和五年(1316)七月、従五位上佐馬権頭・北条高時は、第十四代・執権の座についた。   連署には前年に就任した金沢貞顕が、そのまま留任。
執権高時、連署貞顕という体制は、その後10年間も続く。 
横浜市金沢・称名寺   金沢貞顕公廟所
DSCN3559.jpg
DSCN3558.jpg

しかし政務の実権は、執権・連署ではなく長崎円喜と安達時顕の二人が握っていた。   因みに時顕の子高景(takakage)は、円喜の娘と結婚していたから、円喜と時顕は姻戚関係となっていた。

高時が執権になった頃、円喜は高齢を理由として、得宗家執事という職を息子の高資(takasuke)に譲ったが、実権は残された。
若い執権に若い得宗家執事という体制を表に出して、政務の実権は円喜が握っていたのである。
五山第二位・円覚寺(北条氏三つ鱗紋瓦)方丈
DSCN3349.jpg
国宝・舎利殿特別朱印 (鎌倉・円覚寺)
DSCN3341.jpg

**奥州安東(andou)氏の乱

  後醍醐天皇に討幕を決意させた契機は、奥州安東氏の乱だったかもしれない。
かつて北条義時(二代)は、得宗領の多かった陸奥国北半支配の為に御内人の安東氏を代官に任じて津軽に置き、奥羽両国及び渡島(osima)の蝦夷支配にあたらせた。  (蝦夷管領)

 その後、安東氏はこの職を世襲したが、鎌倉末期に至って、二系に分流した。   嫡系の貞季(sadasue)は十三湊(tosaminato)に福島城(青森)を築いて津軽安東氏と称した。  庶系の宗季(munesue)・季久(suehisa)兄弟は出羽国に勢力を置き秋田安東氏と称した。

 必然的に両安東氏の間に、家督と蝦夷管領の職とを巡って対立が生じた。  ともに得宗家公文所に訴訟して出た。
この時得宗家執事であった長崎高資は、双方から賄賂ををとって事件を解決しなかったで、対立は激化してしまった。
この状況を見て蝦夷が叛乱したのである。   両安東氏と蝦夷との三勢力の間に、三つ巴の合戦となった。  奥州安東氏の乱である。

次回へ

戊戌・乙卯・丁亥
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉北条氏 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<幕府滅亡 | ホームへ | 幕府滅亡>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する