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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.16(19:36) 13

中村氏

相模武士としては三浦氏とかなり良い関係にあった中村氏は、五代前の村岡良文から出た同族で中村宗平(nakamura・souhei)の娘が大住郡岡崎を領していた三浦義継の子(義明の弟)義実(yosizane)と婚姻関係を結ぶことによって緊密な関係が出来ていた。
後年、和田合戦の時に、和田義盛側に付いた義実の孫実忠(sanetada)に味方して土肥・土屋の面々も参戦し、一族郎党数十人が戦死しているほど両氏にとって意義のある事だったのでしょう。
相模武士の祖・村岡一族館旧蹟石塔  (藤沢市・宮前)
村岡一族館跡
次に中村氏と相模国衙との関係を「吾妻鑑」の一説から紹介しておきましょう。 文治二年(1186)6月1日条から・・・この記事は相模国内の人々が、疲弊して農作もままならぬ状況にあることを哀れんだ頼朝が、国内の主だった百姓に米一人当たり一斗を給付したというもので、頼朝の仁政を強調する内容になっているが、この業務に実際に携わったのが三浦義澄(yosizumi)と中村宗平の二人であったことは、業務の内容からして両名がそれ以前から相模国衙の雑事を分掌していたことを物語る。
中村氏と三浦氏の連携関係は、波多野氏を南北から封じ込めようとの意図の下で成立したのであるが、中村氏と波多野氏の直接的な対立は記録にない、・・・・・しかし両氏の確執は根が深かった様だ、治承四年の頼朝挙兵前後の波多野氏の複雑微妙な行動と、その後の中村氏の波多野氏領内における動向にみられる。  すなわち頼朝は挙兵をするにあたって、使者を相模武士らに遣わし協力の約諾を取り付けたが、波多野義常(yositune)と山内首藤経俊(siyutou・tunetosi)は頼朝の引きに応じなかったようだ。
石橋山で敗れた頼朝は房洲に逃れ、体制を建て直し鎌倉に入部したあと、(詳細は後述する)頼朝は波多野義常に討手を差し向けると義常は戦わずして自殺してしまった。
これらの事実から読み取れることは中村氏は日頃波多野氏の領域で自領に近い松田郷に関心があり、頼朝の対する義常の反抗を理由に、松田郷の領有を頼朝に願い出て、それを認められていたのではないか・・・・、逆に義常が頼朝に従わなかった理由の一つに、これらの対応に不満を持っていたのではないか・・・。
以上のように三浦氏と連携する中村氏と波多野氏との関係は対立含みであったが、三浦氏との関係はどうであったのでしょうか。

上総介氏・千葉氏

千葉・三浦両氏の連携を示す記事が「吾妻鑑」治承4年6月27日から見える。       
京都大番役の為在京していた三浦義澄(yosizumi)と千葉胤頼(taneyori)の二人が、帰国の途中、伊豆北条館の頼朝に謁し三人は余人を交えず会談している。  京都で以仁王(motihitoou)の挙兵が失敗したあと、自身の進退について決断を迫られていた頼朝は、二人と緊迫する京都情勢について話し合ったと想像されるが、それとは別に注目されるのは、義澄・胤頼の両人が、大番役完了後、帰国に至る間、行動を共にしていた点で、そこに三浦・千葉両氏の日頃の連携ぶりを見て取れる。

上総介氏・千葉氏と三浦氏との関係は、陸路は武蔵国、海路は東京湾を挟んでかなり隔たっていたにもかかわらず,意外に緊密であった。  まず上総介氏とは広常の代に弟頼次の妻として三浦義明の娘を迎えるという絆を結んでおり、この強い絆は治承四年八月の頼朝挙兵直後に生じた衣笠合戦において遺憾なく現れているのである。
衣笠合戦・古戦場跡(横須賀市・衣笠)
衣笠城址

石橋山合戦に直接参戦出来なかった三浦武士団の主力は、帰途鎌倉の西、小坪で追てきた武蔵国秩父党と一戦を交えこれを撃退したあと衣笠城に再び秩父党の来襲を受け、奮戦及ばず衣笠城は落城してしまった。  当主義明は城にて自害。  子供達は義明の命で頼朝のいる安房に向かった。
義明は、頼朝の勝利を信じて疑わ無かった様だ、「生き延びて頼朝と会ってから全力を尽くして戦え」と言い残したという。
沈着冷静な雄将三浦義明の判断には、平家の衰運から察して、頼朝の勝利を確信していたのです。
頼朝が勢力を回復して勝利し後は、関東一円の武将たちが頼朝に服属していった。こうした周辺の変化を察知した武蔵周辺の武士達は頼朝に降伏、こうした状況は政治的に効果が大きかったらしく、鎌倉に本拠を構えた。  次回に続く

丙申・庚子・壬寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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