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幕府滅亡

2018.03.04(07:00) 131

**その後の北条氏

  鎌倉幕府が倒れて、後醍醐天皇の親政が再開された。   
 天皇の意欲的な政治は世人の期待に応えるかに見えたが・・・・・・・・。
しかし天皇は、寵妃阿野簾子の口入に従い、有効な政策を打ち出せないまま、護良(moriyosi)親王と足利尊氏(takauji)とが対立してしまった。さらに楠木、新田等の武将たちが右往左往する事態に陥っていた・・・・・。

京都では喧嘩・口論・斬り合いが頻発して、治安が極端に悪くなっていたようだ。 また旧得宗領や北条一門領だったところでは、一気に訴訟が起こっていた。

**北条氏与党の乱

  陸奥国津軽の曽我氏、豊前国帆柱城の規矩流・北条高政(takamasa)、豊前国堀口城の糸田流・北条貞義(sadayosi)、伊予国烏帽子城の赤橋流・北条重時(sigetoki)、出羽国小鹿島と秋田城、越後国岩船、讃岐国等で挙兵している。
  なかでも建武元年(1334)3月、武蔵国で挙兵した本間・渋谷両氏の軍は、一度は故地鎌倉に進軍・突入している。
  しかし、諸国で頻発した北条与党の乱は、重要な条件を欠いていた。  相互の連絡と、それらを統率する戦略である。 特に必要だったのは、諸軍をまとめるリーダーだった。  それらの重要な条件を欠いた諸国の北条与党の乱は、散発的だった事もあって、いずれも撃破されている。

刑部少輔時興(tokioki)と名乗る武将が京都の山荘に匿われていた。   北条高時の弟・泰家(yasuie)である。
 幕府が滅んだ当日、再挙を期した泰家は、高時の両息万寿丸と亀寿丸とを家臣に託して落ち延びさせ、自分も姿を変え逃げ落ちていた。  元関東申次だった西園寺公宗(kinmune)に匿われていたのである。
その間、泰家は高時の二遺児の消息は聞き知っていた。  高時の長男・万寿丸邦時(kunitoki)は信頼して預けた五大院宗繁(munesige)に裏切られ、新田義貞によって殺害されている。
 しかし、次男亀寿丸は、諏訪盛高(moritaka)に護られて鎌倉を脱出し、信濃に逃げ延び、諏訪神社を中心として信濃の御内人たちが結成している諏訪神党に匿われていた。 その地で元服した亀寿丸は相模次郎北条時行(tokiyuki)と名乗っていた。

**北条時幸の挙兵

  諏訪に潜伏していた北条時行が南信の府中を急襲した。  この時、諏訪頼重(yorisige)を事実上の大将とした北条軍は、いとも簡単に国衙を占領してしまった。   新任の清原左近少将を初陣の血祭りに上げると、背後の守護勢に備え滋野一族の軍を残し、上野国へと軍を進めた。

  各地に潜伏していた北条与党の侍達が、風を臨んで馳せ参じてきた。
三浦時継(tokitugu)・芦名盛貞(morisada)らの三浦党、上野の那和宗政(munemasa)、武蔵の清久・塩谷等の他、伊豆・駿河・相模・甲斐・信濃など、「太平記」 等では五万騎を超える大軍になったと記される。

  鎌倉を守っていた足利直義(tadayosi)軍は久米川(東村山市)で迎撃したが、簡単に撃破されてしまった。  敗戦に驚いた足利直義は、自ら軍を率いて迎撃に出たが、これも簡単に撃破されてしまった。  北条軍の鎌倉侵入を許してしまい、鎌倉を捨て京都に向かった。

*足利直義・・・・足利尊氏の実弟。   淵辺義博(yosihiro)に命じて大塔宮護良親王(moriyosi)を殺害したのは、この時である
護良親王を祀る大塔宮(鎌倉宮)   (鎌倉・二階堂)
鎌倉宮
鎌倉宮・本殿
大塔宮護良親王御陵(宮内庁管理) (鎌倉・二階堂)
護良親王墓・宮内庁

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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