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幕府滅亡

2018.03.08(07:00) 132

**その後の北条氏

:**鎌倉奪還

  鎌倉に進軍した北条軍は大きな反撃もなく鎌倉に入った。  守備兵のいない鎌倉侵入は挙兵から10日後の事だった。
先祖相伝の故地鎌倉を奪還した北条時行(高時・次男)がこの時に発した命令書が残されている。  

*頼朝法華堂領の林郷大多和村(横須賀市・大田和) での違乱を正したもの。

  それには正慶四年の年号が用いられ、亡父高時の頃の年号を使っていた事が注目され、文書様式も代々の得宗が用いた得宗家公文所奉書の様式が使われた。  時行の心情が覗われる。

しかし時行の鎌倉占領も、長くはなかった。    京都からの足利尊氏の軍勢が下ってきたのである。  以下、七回の迎撃戦にすべて敗れている。    駿河・・・高橋・國府・清見関、相模・・・湯本・相模川・辻堂・片瀬である。

諏訪頼重・時継父子など主だった武将たちは勝長寿院(大御堂)で自害している。
源頼朝・父義朝供養の為に建立した勝長寿院跡  (鎌倉・大御堂)

勝長寿院石塔

その中に、北条時行の遺骸は無かった。  再挙を記して、信濃に落ちた様だ。  「中先代の乱」 の終焉である。
鎌倉幕府を先代、室町幕府を当代と見るとき、その中間の時行は中先代、鎌倉占領が二十日間ほどでであったので「二十日先代の乱」とも呼ばれる。 
この戦いは、南北朝内乱の契機となったと思われ、時行は一族の復仇と北条家再興とを目指して戦い続けた。   先に鎌倉に攻め入った新田義貞(yosisada)ではなく、京都で北条氏に叛いた足利尊氏を敵とした事は、注目される。

延元二年(1337)、足利氏を共通の敵とするという事で、時行の南朝帰順が後醍醐天皇に認められた。  北条時行軍は、南朝方になったのである。
 奥州を発した北畠顕家軍(akiie)が鎌倉を占領した時、時行軍はその一翼を担っていた。 伊勢国大湊を出撃して関東に向かった南朝方の船団には時行軍も乗り組んでいた、信濃国・大徳王寺城で、時行軍は挙兵したという。
しかし、何れも失敗した記録が残される。  南朝方に風は吹かなかったのである。  
  だが時行は、執拗なまでに粘り強かった。 合戦に敗れても、自刃する事無く戦場を離脱しても、すぐに軍を再興して反撃に転じたという・・・・・・。

  観応元年(1350)、好機が訪れた。   足利尊氏・直義兄弟が対立したのである、足利勢が二つに割れてしまう、「観応の擾乱」(kannnouno・jiyouran)である。
足利直義・墓地  (鎌倉・浄妙寺)
足利直義墓

  機をとらえたのは、南軍の総師・北畠親房(tikafusa)である。京都と鎌倉の同寺奪還を、図ったのである。   指令を受けた新田義宗(yosimune)・美興(yosioki)兄弟は上野国で挙兵、伊豆国では北条時行も挙兵した。  東国南軍の激発を目前にして、鎌倉に駐留していた足利尊氏は、鎌倉を捨てて逃亡している。
守備軍の居ない鎌倉は簡単に奪還された、いずれにしても北条時行は、二度目の鎌倉奪還を果たした。

同じころ、北畠顕能(akitada)、楠木正儀(masayosi)の南軍も、京都に乱入し占領している。   京都・鎌倉の同時奪還作戦は、見事に成功している。   光厳・光明・崇光の持明院統の三上皇は捕えられ、一旦は両皇統は一流となった。   南朝の年号によって「正平ノ一統」 と言われた。

しかし、足利尊氏の足利勢は大軍を集め反撃に出た、その兵数の差は歴然としており、まず尊氏が鎌倉を再奪還、そして京都は足利義詮(yosiakira)・(尊氏嫡男)によって制圧された。   
鎌倉で敗れた時行はまたも地下に潜したが、結局足利勢に捕えられ鎌倉・龍ノ口にて斬殺された。    ここに鎌倉北条・得宗家は、断絶した。  

(終り)

戊戌・丙辰・己亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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