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室町期へ

2018.03.12(07:00) 133

 **鎌倉か京都か?・・・・・・ 

  後醍醐天皇の派遣した討伐軍を箱根で破った足利尊氏(takauji)は新しい武士の基盤をどこの置くか検討していた。
尊氏の実弟で足利軍の副将の地位にある直義(tadayosi)は、有能な軍政官として知られており、鎌倉幕府の再興を念願していたという。  この時も京都進出には反対だったようだ・・・・・・・。
自分たち武士の基盤は東国であって、西の朝廷とは一線を画するべきと、前代の鎌倉と京都の関係を復元する様にと主張した。  ところが、事態はその様には進展しなかった。
後醍醐天皇の皇子・護良親王墓所  (鎌倉・大町 妙法寺)
盛長親王
足利尊氏の下した決断は京都進軍であった。   足利勢は全軍を挙げて、京を目指したのです。  副将である直義の意見は採用されなかったのです。 
足利尊氏・直義の父、貞氏の墓所  (鎌倉・浄妙寺)
足利貞氏墓
では何故尊氏は、頼朝のとった鎌倉ではなく京都への道を選択したのでしょうか?・・・・
現在残されている史料等からは良くわかっていないが、尊氏の狙いは京都の経済力であったと考えられています。

鎌倉後期のある皇室領の収支決算資料によれば、四十余ヵ国の所領が上納する年貢高は、合計で5000貫に達している。  一貫が10万円として、およそ5億円ほどと云われる。   
当時皇統は二つに分かれており、この内の大覚寺統(後醍醐天皇の系統で南朝に属す)の主要財源である八条院領が220ヵ所、持明院統領(北朝・現在の皇統)の長講堂領は180ヵ所と言われていますので、この皇室領を基準にすると、天皇家の豊かさを窺い知ることが出来る。
さらに貴族や大社寺など多くの荘園領主が居住する京都には膨大な額の銭及び物品が集積されていたと思われます。

京都への進軍を決定した足利軍は、一旦は朝廷軍に敗れて九州まで落ち延びるが、軍勢の立て直しに成功し、勢いを回復して再入京した。
建武三年(1336)足利尊氏の奉じる持明院統の光明天皇が即位(北朝)し、新しい幕府が成立し、比叡山に立て籠もる後醍醐天皇は一旦は降伏するが再度、吉野に移り正当な皇統であることを宣言し、北朝と幕府の打倒を全国に呼びかけた。
以後、60年間に渡って天皇家が分裂する。  南北朝の時代が始まったのです。


*南北朝の争乱

  争乱と言っても、両者がまともに戦ったのは数年の事で、組織的な戦闘は終わり、各地で局地的な小競り合いが継続していた。
この時代には天皇の人格を尊ばない、更には疎かにする行動がしばしば見受けられたようです。    高師直(moronao)は「バサラ大名」として有名だった。   豪華な衣装を身に着け、王朝の風とは異なる美意識を誇示するのが「バサラ」です。
この時代を代表する価値観でしたが、それは伝統的な権威を維持する天皇家に対する挑戦を意味したのではあるまいか・・・・・・。 さらに言へば、この時代天皇家の権威が最も低下した時代とも言えます。   

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平成30年戊戌・丙申・癸卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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