FC2ブログ

タイトル画像

室町期へ

2018.03.20(07:00) 135

**鎌倉府

  後醍醐軍との覇権争いの為、尊氏・直義の兄弟は上洛したが、東国・鎌倉に尊氏の三男義詮(yosiakira)が東国の主として残された。
しかし、実質上東国を任されたのは斯波家長(ienaga)であった。   建武政権との戦いに勝利するために尊氏は家長を陸奥守兼奥州大将軍に任じたのである。
畿内に攻め込んだ後、その背後を突かれないために彼を東国に留め置いたと思われる。  たとえ奥羽の大軍が上洛しようとしても、奥羽において北畠顕家(akiie)らを牽制する事になり、さらに鎌倉周辺に防衛線を敷き、奥羽軍を食い止めるか、疲弊させようとしたのである。  しかし、現実には、尊氏の目論見は外れ、上洛した奥羽軍に尊氏軍は九州まで追い込まれたのである。

斯波家長は足利一門であり、家格は高く、本宗家と同格とされる名門で、尊氏の信頼も厚かった。  しかも彼は足利氏の中でも数少ない奥羽情勢に詳しい人物であった。  それゆえ、尊氏は家長を陸奥の新国司、奥羽の最高軍事指揮官としたのだ。

  畿内の後醍醐軍の苦戦を知って、鎮守府将軍・北畠顕家は奥羽の大軍を率いて上洛し始めた。  奥羽の名だたる武将の多くが従った。  この顕家軍を背後から脅かしたのが斯波家長率いる足利軍であった。   顕家軍は鎌倉に残留する足利方を破って、上洛していったのであるが、家長軍は鎌倉に留まり、東国に腰を据え、東国を足利の後ろ盾にしようとし、足利義詮(尊氏・三男)を擁立して東国・奥羽の経営にあたろうとした。

ここから鎌倉府が始まるのである。  斯波家長は初代の鎌倉府執事とされている。
  当時、家長によって発給された文書等を整理すると、その権限はかなり広範にわたっていた様だ。 動乱の混乱期でもあり、いわゆる鎌倉府という政治組織も確立していなかった事もあって、その権限は軍事指揮権が中心であるが、所領安堵の推挙などの統治権にも関わっていた。

  さらに、陸奥守として奥州に関与しただけでなく、常陸・相模・下総・甲斐などの関東にも権限を及ぼしており、その様な事で、初代の鎌倉府執事とみなされていた様だ。

  このような職権から、後の鎌倉府が行ったようにこの地域を完全に掌握し、中央の介入を許さなかったかと言えば必ずしもそうではない。  軍事指揮権は尊氏・直義も持っており、しばしば命令を発している、また東国各国の守護に対しても統治に関して、中央から直接命令を発している。

**鎌倉・薬師堂   永福寺の三堂基壇再建
DSCN3700.jpg
永福寺再建C・G
DSCN3333.jpg

*永福寺(youfukuji)・・・・・・・(鎌倉・薬師堂)
  源頼朝が奥州・藤原氏との戦いで戦死した双方の武士たちを弔うために建立されたという薬師三堂・・・・・平泉・毛越寺・・・宇治・平等院がモデルとされる。
実は、最近の研究からこの永福寺に大仏師・運慶造像の諸佛の存在が明らかになってきました。  詳細は次回以降に・・・・

次回へ

平成30年戊戌・丙辰・辛亥
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<室町幕府 | ホームへ | 室町期へ>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する