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室町幕府

2018.03.24(07:00) 136

**鎌倉府

   「鎌倉将軍府」 の初期の時代には、主たる義詮の命令に従うという形態にはなっていなかったようだ。  此の事からまだ鎌倉府は完全には確立されていなかった事を示しています。
 家長が尊氏の命を奉じているという事は、家長は尊氏の東国での執事たる地位にあった事を示すのである。  奥州大将軍に関東大将軍を兼務した地位にあり、東国・奥羽の最高・軍事指揮権とそれに伴う政務の権限を握っていたといえよう。  

しかし、建武四年(1337)頃になると「将軍家」 という表現が見えない御教書に変化してゆく。  この変化は断定的には言えないが、政治組織としての鎌倉府が徐々に整備されてきたのではないだろうか。 つまり、義詮の意向が反映しつつあったと考えられる。

東国にはまだ制度・組織、権限・範囲、指令系統など確立した機関が存在しておらず、まして動乱の最中であり、鎌倉府は政治・行政組織ととして確立してはいませんでした。  
だが鎌倉に足利方の支配組織・権力機構が確立し始めていた事も確かな事である。

  その様ななか、鎌倉の守将・斯波家長が奥州軍との激戦の最中戦死してしまった。 鎌倉の義詮はかろうじて三浦半島に逃れていた。
東国の足利軍は蹴散らされて守将が戦死した事により、家長に代って足利軍の司令塔となる武将が必要となった。 その役割を担ったのが上杉憲顕(noriaki)と高重茂(sigemoti)の二人であった。

足利尊氏は中先代(nakasandai)の乱を鎮定した後、上野の守護として、信頼のおける伯父(母清子の兄)の上杉憲房(norifusa)を任命した。 しかし、すぐに戦死したらしい・・・、その後、子の憲顕(noriaki)に引き継がれた。  また高重茂(sigemoti)は高師直(moronao)の弟であり、武蔵国守護の活動が見られる。
斯波家長戦死後の東国を抑えられるのはこの二人しかいなかった。

奥羽軍に追われて三浦半島に匿われていた義詮は鎌倉に帰還していた。  先に鎌倉入りしていた憲顕・重茂らと共に鎌倉府の再興を図るのである。

  常陸合戦が鎌倉方の勝利に終わると、関東はしばらく平穏期の入ったようだ。 関東から南朝勢力は一掃され、北関東の有力豪族の不穏な動きも収まり、関東が平穏な情況になると鎌倉府の動きがあまり見えなくなった。
観応の擾乱までの鎌倉府の動向を示す史料がきわめて少ないのである。

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*運慶小辞典

 〇・・・・・・運慶は、平安中期に藤原道長(mitinaga)が建立した法成寺(houjiyouji)の造仏をはじめ、貴族・朝廷からの注文を多く引き受け、日本的仏像の典型様式=定朝様(jiyoutiyouyou)を完成した定朝の系譜を引く。  
 〇・・・・・・定朝の系譜がさらに三派に流派。  奈良仏師(慶派)・円派・院派と分流。  血筋的には奈良仏師が正統ながら流派してはあまり振るわず、白河院・鳥羽院の時代には円派が、後鳥羽院の頃は院派が優勢でした。

平成30年戊戌・丙辰・乙卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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