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室町幕府

2018.03.28(07:00) 137

**鎌倉府

  この当時の鎌倉府の主である足利義詮(yosiakira)はもちろん、高師冬(morofuyu)、上杉憲顕(noriaki)ら中心人物の発給した文書が殆ど残されていないのである。  その為、鎌倉府なる統治機関は存在しなかったとの指摘もある。
  本当に「鎌倉府」 は無かったのであろうか・・・・・・。  それについては否定的に考えられている。  鎌倉・円覚寺に残される「円覚寺文書」の奥書きに残される次のような文書がある。  

**当寺奉行能州(nousixyuu)、同執事奉行矢多田弾正入道共に、両管領(kanrei)に伺い申す、もっとも子細あるべからずの由、との制札(中略)1通の制札を、更に控えを1通なさる処なり。

  注目すべきはここに「両管領に伺い申す」 とある事である。  この両管領とは鎌倉府管領の高師冬と上杉憲顕と推測されている。 「両管領」 という語句は他にも見られる。   金沢文庫・文書(書状)の中に近隣諸国の争乱を侍所に状況報告した中に「管領」 の文言が見えている。

  これらから、鎌倉には管領という職務を持った者が存在し、侍所という組織があった事が判る。   鎌倉に足利義詮を戴き、管領や侍所というような組織を持った権力機構が存在していた事は間違いの無い所でしょう。

関東も奥羽も二人の管領を中心とする軍事・行政機構が成立したのであるが、この両管領による権力機構は安定的に機能しなかった。  中央(京都)の権力闘争の余波を受けて両管領制は機能しなくなっていくのである。

*尊氏・師直と直義の対立

  中央の権力闘争。  いわゆる、直義と高師直(moronao)の対立、やがては直義と尊氏の抗争に発展し、ついには幕府は分裂して二頭政治が崩壊していった事である。   この過程の概略をレポートすると次のような経過である。
直義・祖父足利家時墓所  (鎌倉・報国寺) 臨済宗建長寺派 
DSCN2912.jpg
直義・父足利貞氏墓所  (鎌倉・浄妙寺)  臨済宗建長寺派
足利貞氏墓
足利直義墓所  (鎌倉・浄妙寺)   臨済宗建長寺派 
足利直義墓
対立の要因は、政治方針の対立と党派闘争であったが、高師直(moronao)の幕府軍と南朝軍とが京都・四条畷で激しい戦闘を展開、幕府軍が勝利した事から師直と直義の抗争が始まった。   という事は、この事によって師直の声望が一挙に上がったと言われるからだ。  それに対し直義が先制攻撃をかけて、将軍執事・師直の罷免を勝ち取り逆転したのだ。

 しかし、師直はクーデターを起こして、直義を地位から追い落し、鎌倉から足利義詮を呼び寄せて、政務の責任者の地位に義詮をつけ、鎌倉には尊氏の次男基氏(motouji)を下したのである。   そして再び師直は執事の地位に返り咲いた。  直義と尊氏の関係もさらに険悪化してしまったのだ。  

ここに至ってはもはや関係は修復不可能な事態となっていった。   直義は京都を脱出、尊氏・師直を討つために挙兵した。
そして直義の陣営には多くの武将が参戦し、優勢のうちに戦いを進め、高師直一族は帰郷の途中に殺害されて滅亡した。

一方、尊氏と直義は一旦は和睦したようだが、直義派が優勢で、いよいよ尊氏と直義はの幕府主導権を巡っての死闘となっていくのである。

*運慶・小辞典

〇・・・・・慶派(奈良仏師)・・正系仏師・定朝(jiyoutiyou)の流れにつながる直系子孫。
           
      定朝─覚助─頼助─康助─康朝─康慶(法橋)(父)─運慶
           
      兄弟弟子・・快慶・定覚・定慶

      弟子及び子供達・・・源慶・静慶・運覚・・・・・湛慶・康雲・康弁・康勝・運賀・運助          


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平成30年戊戌・丙辰・己未


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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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