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室町幕府

2018.04.02(07:00) 138

**鎌倉府

**観応の擾乱

  鎌倉府内部での確執は直義派の勝利で終わったが、中央では尊氏の巻き返しが激しく、両党の抗争は激しくなっていった。
この戦いは、都の鹿ケ谷・北白川・阿弥陀ヶ峰・紫野辺辺りで繰り返し戦ったと「太平記」 は書いている。 しかし、此の戦いによって直義方は大きく敗れた様だ。  直義は中央政界で実権を失い政務を辞して、都から脱出している。  
直義はこれを最後に再び京都に帰る事は無かった。  直義は自分の勢力範囲の北陸を経て関東に下った。 鎌倉には最も信頼のおける上杉憲顕(noriaki)が居たのである。

一方、尊氏は南朝と講和し、軍勢を率いて京都を出発して関東に下向し、各地で直義軍と戦い、それを破り、直義を屈服させた。 
翌年、直義は死亡しているが、尊氏によって毒殺されたと言われている。

観応の擾乱にによって中央の幕府は、権力が分散していた二頭政治から、権力機構を一本化した将軍─管領制が成立し、まがりなりにも将軍専制体制が確立したのであるが、東国・奥羽地域はどの様に・・・・・・。
関東に於いては一時擾乱に乗じて一部蜂起があったが尊氏軍に鎮圧され、その後二年余りに渡って鎌倉に居座り、東国の安定に努めるのである。 そして、引き続き基氏(motouji)(尊氏・三男)を鎌倉に置き、畠山国清(kunikiyo)・高南宗(namimune)らを執事として補佐させて、尊氏は上洛した。

*足利基氏(motouji)・・・・父・足利尊氏・・(三男)(鎌倉三郎)

  足利基氏・・・あまり知名度は無いが鎌倉の歴史には欠かせない、鎌倉の主が北条氏から足利、上杉、後北条氏と移る過程での重要な時代を担う事になる・・・・・・。
兄義詮(yosiakira)と同じ母・登真院・平登子(北条守時・16代執権の娘)で、鎌倉三郎と号した。
鎌倉府・公方邸旧跡  (鎌倉市・浄明寺)
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足利氏代々菩提寺・臨済宗建長寺派浄妙寺山門   (鎌倉市・浄明寺)
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 「 太平記」等によれば基氏は高師冬(morofuyu)と共に関東に下向し、鎌倉の上杉憲顕(noriaki)と共に「東国の管領」と呼ばれたと言う。  この基氏の鎌倉下向は10歳で、元服前に行われた事になる、 関東管領を勤めた兄・義詮と交代する形で成された。
この記事は足利義詮上洛後の関東統治の仕方を巡って、尊氏・直義の談合による結果と考えられるが・・・。この人事について直義は受け身であったが、かなり抵抗したようだ。 義詮の上洛・執政は既定事項で、この状況下で直義の思考を憶測すれば、既定事項は受け入れるが、関東を自分の支配下に置くことが最大の目標だろう。   それが基氏の鎌倉下向であろう、基氏に関東8ヵ国を支配させてほしい・・・・・。尊氏に強く申し入れた。

基氏は関東下向に際して、直義の養子になったような記録もあり、養子・基氏をして関東を支配させ、京都の政権から独立した政権、東国政権を作ろうと考えたに違いない。

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**運慶・小辞典

  運慶の今に伝わる最初の作品(真作証明)・(台座銘) 20代の作・・・・・奈良・円城寺蔵・大日如来坐像
この像は現存する最古の仏師署名を伴う作品だが、その銘文から製作期間や代価についての詳細が記録されている。
  大日如来像の映像を記載できませんので他の資料等でご確認ください。

平成30年戊戌・丁巳・甲子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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