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室町幕府

2018.04.06(07:00) 139

**鎌倉府

  *鎌倉公方

  基氏が鎌倉に下ったのは、幕府の内紛が関東の政治状況に直接的な影響を及ぼしていた時がった。
基氏の着任以前から、鎌倉府執事としては上杉憲顕(noriaki)が居り、この執事の補佐の上に、幼年の管領・基氏が独自の政治を行う事は困難であろう、鎌倉府の政治はこの憲顕(noriaki)が代行したと思われる。

 ここで鎌倉府の職制についてレポートしておこう、鎌倉府の主、その補佐役(執事)の呼称だが、元来、足利義詮が「関東管領」 と呼ばれていた事は事実で、交替に下向した足利基氏が「関東管領」 は当然であるが、基氏の自筆書状(上杉文書)では、上杉憲顕が「関東管領」と称されている。

 これ以降主を鎌倉公方とし、執事を関東管領と称するようになったのであろう・・・・・・。  (足利基氏・初代鎌倉公方)

 これ以降「関東管領」の職は上杉氏の家系に独占して伝えられていく事になる。  憲顕の関東管領就任に反対の宇都宮氏綱(ujituna)等が兵を挙げるが基氏自らが出陣して収めたと言う。

  佐馬頭から佐兵衛督になった基氏は、直状を東国の武士たちに発して南朝方の追討を命じて、東国の平定に尽くしている。「太平記」 の記録に依れば彼を関東の柱石と評した。
二十八歳で没するまでに、多方面にわたる多数の直状形式の御教書を発して、東国経営に全精力をを注いでいる。  鎌倉の古刹・瑞泉寺を中興、鎌倉公方代々の菩提寺とした。  基氏はこの寺に葬られている。
臨済宗・円覚寺派 瑞泉寺山門 (鎌倉公方菩提寺)
瑞泉寺・三門
瑞泉寺やぐら
瑞泉寺・やぐら
  永和三年(1377) 鎌倉公方は基氏の子・氏滿(ujimitu)が二代目公方を世襲。  上杉能憲(yosinori)の弟憲春(noriharu)が 関東管領となる、
上杉氏のうち、憲顕から憲方(norikata)へと継承された家系を山之内上杉家と言い、他に犬懸家(inukake)・扇ヶ谷家(oogigayatu)・宅間家(takuma)と継承され、いわゆる「上杉四家」 といわれ、関東管領を世襲してきました。
其々が鎌倉に構えた邸宅の所在地に由来する家名であった。

  康暦元年(1379)関東管領・上杉憲春が自害する。    都では、三代将軍足利義満(yosimitu)の下で管領・細川頼之(yoriyuki)と斯波義将(yosimasa)の軋轢が高じ、頼之が管領を辞任するという騒動が起きていた。   (康暦の政変)

 鎌倉公方・足利氏滿はこの政治的混乱に乗じて幕府に叛こうとしていた、憲春の自害は、氏滿の謀反を制止するための諌死であったと言われる。  その後、弟の上杉憲方(norikata)が関東管領となる。

*運慶・小辞典

  運慶の今に伝わる次の作品・・・・・北条時政発願、伊豆・願成就院   阿弥陀三尊・不動二童子・毘沙門天
(真作証明)  (毘沙門天像内から出た銘札)
  時政は頼朝の命により京都守護の任に有った。 任務が明け鎌倉へ戻る時政が運慶を帯同したと考えられており、運慶と東国との関りの始まりと思われます。

  例によって映像はありません。

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平成30年戊戌・丁巳・戊辰
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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