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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.20(21:26) 14

*海のもののふ

古代の主要な官道である東海道が相模国から東京湾を経て房総に至るという事はよく知られている事だが、それでは具体的にどのあたりを通っていたのだろうか、前出の石井進先生の著書から引用させていただきます。
まず相模側であるが、鎌倉郡との境小坪から鐙摺(abuzuri)(葉山町)を経て田浦(横須賀市)~大津(同じ)~走水(同じ)に至るルートが比定される。 しかし走水付近は港として不適であったと考えています。
そうすると、次の推測は小坪から一色(葉山町)を経て平作川左岸沿いに浦賀(横須賀市)に出るルートがある。 浦賀は鎌倉時代の初め頃には重要な湊として使われていたと思われ、地形的にも港湾施設を置くのに条件が整っており、東海道の水駅所在地に適している。
*水駅・・・・・・官道に置かれた渡し船の駅

さらに、第三案として小坪から西海岸の芦名(横須賀市)を経て衣笠(同じ)佐原(同じ)を通り久里浜に至るルートもある。このルートも古東海道に比定できるのではないか・・・・・。芦名・衣笠・佐原には平安時代以降三浦氏の本宗並びに有力支族が配されていたことが重要視される。
古東海道・鎌倉の入り口「稲村ケ崎」より江の島を望む
稲村から江の島

相模側の水駅が浦賀または久里浜辺りにあったとして、対岸の房総側の水駅所在地をどこに比定出来るだろうか。・・・・
最近の研究で、鎌倉時代初めごろの相模と房総の海上交通について当時の潮流分布の研究から、三浦氏の本拠地であった三浦半島から金田氏の本拠地であった上総国金田郷に向かうには東京湾口から湾内の金田海岸の方向に流れる潮流を利用すると短時間で渡海することが出来る。  金田といえば、上総介広常の弟で、三浦義明の女婿でもある頼次(yoritugu)の名字の地であるから、水駅管理、および相模側水駅との連携という点からも好都合の地であったと思われる。

他にも比定地はある、現在の富津市金谷で東京湾口を結ぶ最短距離にあり、現在も久里浜~金谷間に東京湾フェリーが運航している。   この地に注目する理由は、中世後期にここに金谷城が置かれていた事で、おそらく中世後期に遡ってもこの地は東京湾海上交通の要衝となっていたと考えられる。

*海上交通と国衙

令制の官道(東海道など七道)には、原則として30里(16㌔m)ごとに1駅が置かれ、各駅には管理者である駅長がいた。 駅の機能は都と地方との間を上下する公使の為に駅馬を提供する事であり、この駅馬事体の管轄は国衙の権限であった。 前記で述べた水駅にも同じように数隻の船が置かれ、国司の管轄下にあったとみてよい。 すなわち東海道の相模から房総への渡海の為に設けられた、相模側久里浜、安房側湊・金谷それぞれ相模国衙と安房国衙の管轄下にあったと考えている。 具体的に言えば前者は三浦郡を支配する三浦介、後者は安房国衙の有力在庁安西氏の管轄となる。
鎌倉三浦氏祖・三浦大介義明戦没地 (横須賀市大矢部・薬王寺)
三浦大介戦没地

*三浦水軍

一般に水軍とは、瀬戸内海の村上水軍のような島を本拠地にして、主に海上で軍事活動(海賊行為も)を行う武士団か、もしくは陸上に根拠地をもつ武士団が抱える水上部隊を指す。  三浦水軍は後者にあたるが、「海のもののふ」と言われる三浦氏が水軍を保有していたことは充分推察出来る。  
国衙在庁として管轄下にあった渡海用の船などは、戦時には兵船に転用できたはずである。   三浦氏も介として管轄していた船の他にも、日常的に多数の船を保有していたと思われ、それは三浦水軍と呼んで差し支えないほどの規模と機能をもっていたと思われる。

挙兵直後、三浦軍は、伊豆から相模に進出を図る頼朝に合流する為、三浦軍は船で衣笠城から出発したが、暴風のため引き返し、翌日改めて陸路で出直し、合戦に間に合わなかったのです。   次回に続く

丙申・庚子・丙午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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