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室町幕府

2018.04.10(07:00) 140

**鎌倉府

**関東管領

  幕府との協議の結果、明徳三年(1392)鎌倉府の管轄が次のように決定した。  従前の関東分国(関東八ヵ国と伊豆・甲斐)に陸奥と出羽の二か国が加わる。
この頃、都では南朝・後亀山天皇から北朝・後小松天皇に「三種の神器」 が譲られ両朝の講和が成った。 (南北朝・統一)

  応永元年(1394) 関東管領・上杉憲方(norikata)没す。    一方、京都では足利義満(yosimitu)が将軍職を子の義持(yosimoti)に譲り、太政大臣となる。

応永五年(1398)11月、二代公方・氏滿が没すると、満兼(mitukane)は21歳で三代鎌倉公方となった。 
既に青年期に達していた彼は、前代から引き継いで関東管領である上杉朝宗(tomomune)に補佐され、就任当初から精力的に活動を始めた。

しかし、船出は波乱含みであり、幕府との関係は多難であった。  特に所領争いは激しく、前代の氏滿時より対立していた伊豆・密厳院(mitugonin)をめぐる京・醍醐寺と鎌倉・鶴岡八幡宮は激しく争っていた。 義満は当然だが、鎌倉公方としての沽券がある若き滿兼も、一歩も引かなかったようだ。

  三代鎌倉公方・足利滿兼の特出すべき政策は二人の弟、滿直(mitunao)・滿貞(mitusada)を奥州に下向させ、奥州支配を確かなものとする積極策である。
兄の滿貞が岩瀬郡稲村に、弟の滿直は、安積郡篠川にそれぞれ下向した。 後に稲村公方・篠川公方と称される事になる。

 二人の弟の奥州下向が、単なる行政組織の設置だけでなく、直接的には、幕府に対抗する際には、これまで鎌倉府勢力の背後に常に不安定要因として存在してきた奥羽勢力の動きを牽制する、幕府への対抗措置という性格が強かったと考えられる。

その後、大内義弘(yosihiro)の反乱(応永の乱) に滿兼が呼応して出兵しようとしたが、上杉憲定(norisada)(関東管領)の諫言によって思いとどまった。
幸いにして、補佐・憲定の和睦第一の政策によって、今度の行軍を止める事が出来た。  その後の彼は、堅実な鎌倉公方・としての役割をしっかり果たしたと言える。

  鎌倉公方に就任して早々につまづいてしまった滿兼であったが、彼も次の持氏(motiuji)の代まで、比較的安定して機能してゆくものを残している。

*関東・八屋形(hatiyakata)

  千葉・小山・小田・佐竹・那須・結城・宇都宮・長沼の八家などを「守護級」家として待遇する代わりに、鎌倉公方家への忠誠を誓わせ、在鎌倉を義務づけたものである。
また、上杉朝宗(tomomune)の関東管領在任期を通じて徐々に確立したこの体制は、犬懸(inukake)・山之内(yamanouti)両管領家、特に前者を媒体とした八者相互間の婚姻関係の構築をもって安定させられて行き、後に、上杉禅秀(zensiyuu)の乱で激突する。

参考・・・・・上杉家系図    足利家系図
上杉氏
足利氏

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*運慶・小辞典

  運慶の今に伝わる次の作品・・・・・・鎌倉幕府・初代侍所別当  和田義盛夫妻の願いにより制作。  
 〇  阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩 (阿弥陀三尊像)  運慶の唯一現存する「如来+菩薩トリオ」
 〇  不動明王立像・毘沙門天立像     像内から小仏師10人と共に制作した旨の銘札が出現

平成30年戊戌・丁巳・壬申
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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