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室町幕府

2018.04.18(07:00) 142

**鎌倉府

**関東管領家

  その政治抗争とは具体的にどのようなものであり、いかなる歴史的背景が存在したのであろうか。 関東管領家を形成していた上杉氏一門内における、山之内家と犬懸家との関係から検証してみよう。

   そもそも上杉氏とは、藤原北家(fujihara・hotuke)の中流公家の家柄であったが、鎌倉後期に天皇の皇子・宗尊親王(munetaka)に従って鎌倉に下向し、その後、有力御家人の足利氏と姻戚関係を結んだ事を機に、足利家の一族的家臣として重きをなしていった。

 特に重房の孫である上杉憲房(norifusa)の妹清子が、足利尊氏・直義兄弟を生んだ事から、南北朝期以降は、ますます重用されるようになってゆく。  そして、憲房の戦死と観応の擾乱での挫折を超えて、その子の憲顕(noriaki)は山之内家を、憲藤(norifuji)は犬懸家をそれぞれ擁立し、前者は越後・上野・伊豆、そして後者は上総・信濃などの守護職を得て、おおむね山之内家が優位な形で互いに勢力を張る事になる。  
因みに、この二家の他に上杉氏には宅間家(takuma)と扇ヶ谷上杉家(oogigayatu)が立てられた。

 山之内家と犬懸家は、ともに関東管領家を家職として引き継いで行くこととなるのだが、その立場は対照的である。  まず、憲方─憲定─憲基といった山之内家は、越後守護家と連携しつつ、幕府権力を背景として鎌倉府内に勢力を繁殖し、それを基盤に鎌倉公方の増長を制御しながら、幕府と鎌倉府との対立の危険性を低減する方向性を有していた。
山之内家・・・・北鎌倉・明月院付近明月ヶ谷に所在した   (鎌倉・山之内)
 明月谷・山之内
明月院前
DSCN3762.jpg
それに対して犬懸家は、不用意な両府の対立はもちろん避けたいものの、公方と密着する事によって、朝宗期に急速に勢力を伸ばしたこともあり、その後も公方権力を背景に、鎌倉府管轄内諸国に勢力を張っていったのである。
犬懸家・・・・・管領屋敷跡   (鎌倉市・浄明寺)
上杉朝宗・氏憲邸
上杉」

  では、山之内上杉と犬懸上杉の両関東管領家は、鎌倉府管轄内及びその周辺にどのような形で覇権を争っていたのであろうか。・・・・・山之内家は、守護国の上野・伊豆両国を基盤に、幕府との関係から、幕府・鎌倉府の両府の境目の国となる越後の上杉宗家や信濃の小笠原氏、そして駿河の今川氏と連携するるとともに、北の常陸佐竹氏とは姻戚関係を結び、さらに幕府に通ずる下野の宇都宮氏とも友好関係を築いていた。

 一方の犬懸家は、これに対抗する様に、守護国の上総を基盤に、下総の千葉氏、甲斐の武田氏、東上野の岩松氏、下野の那須氏と姻戚関係を結ぶとともに、対佐竹家の関係で、常陸の山入氏とも連携していた。

  つまり、上杉禅秀の乱(zensiyuu・no・ran)勃発前の関東周辺の権力関係は、鎌倉公方の影響下にある、武蔵・相模・安房以外の鎌倉府管国および周辺の国々が、官僚家の両派に分かれ、辛うじて均衡を保っていたのである。
 しかし、この様な状況に異変が起きていた。  鎌倉公方に密着して勢力を形成してきた上杉朝宗による犬懸家中心の支配体制が、あまりに長く続いたために、滿兼期の末期には、公方勢力にとって、犬懸家が煙たい存在となってきていたのである。

  ところが、滿兼の死によって世代交代が起こったにもかかわらず、この体制下で、その権力継承を当然のように振る舞う子息・氏憲(ujinori)後の禅秀(zensiyuu)と、新公方を支える勢力との関係は、さらに難しいものとなっていった。 結果、かって犬懸家与党の公方勢力が、逆に山之内家に接近する様になって行った。

その為、12歳にして新鎌倉公方となった足利持氏(motiuji)に対して、犬懸家・氏憲(ujinori)は山之内家への対抗上、持氏の叔父・滿兼と弟の持仲(motinaka)を手中にせざるを得なかった。   しかし、こうした状況が安定したものとなる事は困難であった。 関東管領家における山之内家と犬懸家の対立は、周囲の多くを巻き込んでいたために、衝突は避けられない状況となっていた。

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**運慶小辞典

  「転法輪鈔」・・・・・鎌倉時代の天台僧・澄憲(tiyouken)が残した「唱道」(siyoudou)資料です。  「唱道」 とは、仏教の布教のために説教・説法などを行う事。
昨年春に国立歴史民俗博物館所蔵の「転法輪鈔」 の全容が紹介されました。 転法輪鈔は、法会の際に読み上げられる「表白類」 をまとめた唱道書であるが、今まで知られていなかった同館所蔵の「転法輪鈔」に収録される「表白類」 には、四篇の鎌倉幕府関係の仏事に関するものが発見されました。 その四篇は「伊豆堂供養表白」・「鎌倉薬師堂供養表白」・「鎌倉塔供養表白」・「不動尊表白」であり、その研究から、運慶の造仏とも密接な関係を持っていると推測されている。   

  真如苑真澄寺・大日如来像の造像が建久四年(1193)である可能性が明らかになった。 それは運慶の空白期、すなわち文治五年(1189)の常楽寺諸像の造立から、建久七年の東大寺大仏殿諸像の造立まで7年間のちょうど真ん中となる。  そしてこの時期に運慶は、鎌倉にに於いて鶴岡八幡宮寺の御塔(五重塔)及び永福寺の造仏に従事していた可能性は高いと考えられている。

   *芸術新潮2017・10より

平成30年戊戌・丁巳・康辰
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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