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室町幕府

2018.04.22(07:00) 143

**鎌倉府

**関東管領・上杉禅秀(氏憲)の乱

 応永二十二年(1415)4月、18歳となっていた足利持氏(motiuji)は、鎌倉公方としての主体性を顕示するかのように、些細な理由で、禅宗配下にあった者の所領の没収を強行した。 

  これに反発した禅秀が、関東管領職を辞職すると、持氏は、即座にその後任に山之内上杉家・憲定(norisada)の子息・憲基(norimoto)を任命した。 
  これは明らかに持氏による挑発行為であり、 これ以降、禅秀周辺での蜂起の準備は、静かに、そして広範囲に進められた。

   禅秀は病気を理由に出仕を控え、代わりに嫡子の憲方(norikata)(犬懸家)を鎌倉府に出仕させて、持氏を油断させていた。
禅秀は、秘かに自邸を抜け出し、足利満隆(mitutaka)並びに持仲(motinaka)と西御門の保寿院(hojiyuin)で合流、ここで蜂起したのです。 
幕府・大倉御所  西御門跡
西御門
  禅秀軍の動きに気付いた持氏は、未明に僅かな近臣とともに山之内上杉の憲基邸に移動した。   館と隣にある国清寺(kokuseiji)の防御が固められた。  戦端は、禅秀軍による国清寺攻撃によって開かれたが、本格的な正面対決は由比ヶ浜合戦であった。

*国清寺(廃寺)・・・・・諸説あるが、鎌倉円覚寺塔頭・如意庵の前身といわれるので山之内上杉邸付近が推定される

  この争いは、圧倒的に数的不利のもと鎌倉公方・持氏と憲基は、山之内家と関係の深い扇ヶ谷上杉家(oogigayatu)の氏定(ujisada)など、多くの有力武将を失って敗北し、箱根を越えて憲基の領国・伊豆へと落ちていく。 さらに激しい追撃を受け今川氏の領国駿河へ逃れ、上杉領国の越後まで落ちたと言われる。
関東管領・扇ヶ谷家跡及びその比定地
扇ヶ谷管領屋敷跡
扇ヶ谷

**幕府の反応

   関東の乱が京都に伝わったのは、10日位後の事である。  京都の情勢を伝える数々の日記類の記事から、上杉禅秀の蜂起があり、「足利持氏(鎌倉公方)邸以下、鎌倉中が焼き払われた」 等が伝えられ、「三島で合戦があり、そこで持氏と憲基が自害して果てた」と言うような情報も伝わる。  もちろん誤報である。

  これ等の報に大きく動揺したのは将軍・義持(yosimoti)だけではなかった。 全国諸大名の乱への関与の事情などが論議されたようだが・・・・・・・。
積極的な意見交換などは無く、結局、持氏救援の方向で決着した、「持氏は義持の烏帽子子(ebosigo)であるというのに、なぜ見放しておかれようか」 という、義持の叔父である足利満詮(mituakira)の強い提言によって決着したと言う。

  幕府は事態の打開のため、後に京都扶持衆(futisiyuu)と称される関東の親幕府派の武将を通じて、関東の正確な情報を確保したうえで、関東諸将に対して、持氏方への支援要請を発した。
こうした幕府の方策は、一旦は鎌倉を制した禅秀方の足元を次第に崩して行く・・・・、決定的だったのが、鎌倉防衛の雌雄を決する筈であった武蔵勢力の寝返りであった。

禅秀は、この大きな危機に際して、背後の持氏軍に反撃を加えた上で鎌倉に帰り、そこで態勢を挽回する事に賭けたのだが、いざ鎌倉に帰ってみると、危機的な情勢を察した鎌倉守備軍の多くが既に寝返っていた。

  いよいよ最期を悟った禅秀は、子息で八幡宮別当の快尊(kaison)の雪ノ下御坊に籠り、子息の憲方(犬懸家)及び快尊、そして足利満隆、満仲らと共に自害して乱は終結した。

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**運慶小辞典
 
  ●事績不明の空白期、伊豆・願成就院の堂供養と前後して文治五年(1189)6月に供養された鎌倉・鶴岡八幡宮の五重塔の造仏がもっとも早い例と思われます。  その内容が昨年三月に紹介された「転法輪鈔」 の研究報告書で明らかにされました。
それによれば、「両部大日=金剛界・胎蔵界の大日如来」と「四智如来」 を加えた6体からなる郡像も運慶工房の制作と推察される。 しかし、五重塔は建久二年(1191)に焼失しているので、その諸像も残念ながら現存しておりません。・・・・宝治二年(1248)、源実朝追善の為に大弐の局が高野山金剛三昧院の多宝塔に奉納した「五智如来」 等は慶派の秀作と言われていますので、その面影を窺い知る事が出来る。
 ●源頼朝と仏師・運慶の関わりは、この五重塔・仏像の造仏依頼が最初であると思われます。  運慶はおそらく頼朝が東大寺供養に参列するため西上した建久六年(1195)春までには奈良に帰ったでしょうが、工房の仏師の中には、その後も東国に残った者がいる事は遺作からも明らかです。
 
  ともかく運慶とその集団は10年近くにわたって東国にあり、将軍、大御家人、中小御家人まで、幅広い注文にこたえて造仏に励みました。  (運慶造仏の詳細は後述予定)   そこで勝ち得た信頼が、故地南都で大きく実を結ぶ事になるのです。     (同引用)

平成30年戊戌・丁巳・甲申
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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