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室町幕府

2018.04.26(07:00) 144

**鎌倉府

 **鎌倉公方・戦後処理

   上杉禅秀の乱の終結後、鎌倉府の主な課題は、禅秀与党の討伐、さらに、鎌倉府管轄国内の守護職に関する、幕府からの要請への対応であった。
初夏・切通し(亀ヶ谷坂切通)  山之内から扇ヶ谷に通ずる幹線道路(鎌倉時代)
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   まず、持氏による、禅秀与党の討伐について確認しておこう。  当初の持氏の方針は、禅秀に近い中枢部は徹底的に討伐し、その周辺については一部の所領没収で済ませるというものであった。  鎌倉府の管国支配全体に利用価値がある南関東の千葉氏や、奥州支配の要である白川結城氏を背景とする那須氏以外、禅秀の姻戚関係に対しては容赦のない対応をした。 さらに禅秀の本拠地である上総国に対しての処置も厳しかったようだ。

上総国で行われた徹底的な旧禅秀与党の排除は、単なる怨念だけではなく、その背景には、「幕府との政治的事情」と「持氏の主体的な分国支配方針」があった。

   幕府と密接な関係を有していた宇都宮持綱(motituna)の上総守護就任であった。
禅秀の乱の最中に、情報が錯綜する中、持氏方や今川方のルートとは別に、持綱は幕府と緊密に連絡を取り、関東の情勢を報告し、関東諸将への幕府の指示通達という、重要な役割を担っていたのだ。

  当初、鎌倉府は持綱の上総守護補任を強く拒否していたようであり、その後、幕府と鎌倉府との間で折衝が繰り返され、ようやく一年後に決着が為されたという。     ここで注目したいのは、交渉の結果よりも、宇都宮氏のような、禅秀の乱後に鎌倉府の牽制を目的に幕府から支援を受けた存在であり、史料上では、「京都御扶持者共」又は 「京都扶持衆」 と表現される、東国の武士たちの事である。

  実際、幕府からの「扶持」 といっても、所領などの介在は無く、軍事的な支援もなく、鎌倉府権力の増長を制御するという一点で結びついていた。  しかし、そのような彼らの存在が、幕府と鎌倉府との対立が深まる中で、京・鎌倉両府の沽券争いに油を注いでしまったのだ。

    持氏は、禅秀の乱を通じて受けた精神的な傷を克服すべく、禅秀与党を次々と討伐してきたが、初めは「報復」 というシンプルな行動であったし、鎌倉府政権内の問題でした。  ところが、討伐対象が、その回避のために京都扶持衆化していくにしたがって、幕府との外交問題となってしまったのです。

   その起点となったのは、やはり守護をめぐる問題です。   補任が強行された甲斐・常陸について、持氏が受忍した形跡はない。  実際に、甲斐では、隣国信濃の小笠原氏の支援を受けて、幕府方の武田信元(nobumoto)の入部が試みられたが、鎌倉府方・逸見氏などの抵抗に逢い失敗に終わっている。    その後、信元は没し、後継の信重(nobusige)が任命されるが、入国を怖れ、在京状態が続く事となる。

応永三十年(1423)、鎌倉公方・足利持氏(motiuji)は、京都扶持衆勢力の討伐の為自ら出陣した。  これに対して幕府は猛反発。  特に将軍・義持(yosimoti)の思惑には特別なものがあった。  それは、16歳で将軍に就任したばかりの義量(yosikazu) の存在であった。  問題は、義量の病弱の体質であった。 
息子の体質を考えると、自分の目の黒いうちに、何とか将軍家と鎌倉公方家の格式の別を確立しておきたいとの思ひである。

   義持は毅然とした態度をとるべく、宇都宮氏等の京都扶持衆に、関東の成敗には従わないようにと指示した。一方、鎌倉公方・持氏は与党討伐に軍勢を増派し、京都側の大名を次々に討ち、ついには、関東の京都扶持衆の中心的存在であった宇都宮持綱(motituna)までもが、その一族に討たれる事態となり 関東の京都扶持衆は大方滅んでしまったのである。

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** 運慶小辞典

   〇  建久年間前半は「吾妻鑑」 に永福寺(youfukuji)造営の記事が頻出します。
永福寺(廃寺)は頼朝が文治五年に奥州藤原氏を滅ぼした際に見た平泉の寺々の威容を鎌倉に移そうとした寺で、三つの仏堂を翼楼でつないだ大寺院でした。
 やはり「転法輪鈔」 の記載から詳細が判明する薬師堂の造仏だけでも、丈六(480cm)の薬師如来に両脇侍の日光、月光菩薩、六尺の不動・毘沙門天像、等身の十二神将の計17体からなる大規模なものでした。
平成30年1月~3月・運慶展開催   神奈川県立・金沢文庫 
2018運慶展
  
 〇  永福寺は幕府の迎賓館としても使われていたようですが、鎌倉後期、度重なる戦乱によって火災に逢い、焼失、再建を繰り返した。  応永12年(1405)12月の大火では主な建物は焼け落ち、再建される事無く廃寺となってしまった。
   〇  昭和58年~平成8年にかけて発掘調査が行われ、寺院の規模や配置などが明らかになりました。  発掘された物の中から仏具、飾り金具、仏像片、仏像の飾り金具等が出てきました。   まさに、この金具類が現存する運慶工房制作の諸像の物と類似している事が判ってきました。      (同引用)

平成30年戊戌・丁巳・戊子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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