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室町幕府

2018.05.03(07:00) 145

**鎌倉府

**京・鎌倉の和睦

   その後、幕府側と鎌倉府は一進一退の状態が続いていたが、関東より和平の使者として、建長寺の勝西堂(siyousaidou)が上京するが、将軍・義持はすぐには合う事は無く、幕府側の諸大名と対応策を協議し続けていた。

  それでも翌年には、度重なる関東からの誓文状(降伏状)が提出された事もあり、ようやく義持(足利将軍)も鎌倉との和睦に許可を与え、勝西堂(建長寺・僧侶)との対面が実現した。  その後、何度かの使者が京・鎌倉を往来し、持氏(鎌倉公方)も在陣中の武蔵府中から鎌倉に戻って、一応の和平が実現した。
鎌倉公方邸跡・足利氏    (鎌倉・浄明寺) 
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足利氏菩提寺・浄妙寺 ・・・・鎌倉五山第五位  (鎌倉・浄明寺)
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 しかし、それは臨戦状況が緩和されただけの事であって、その根本要因である常陸と甲斐の守護問題は、そのまま積み残されていた。    この二国間の交渉は鎌倉公方・持氏方の提案によって開始された様だ。
その提案については、詳細は省略しますが、将軍も納得する内容であったと思われ、和睦が成立した。

**稲村公方・篠川公方

   一方この時期、南奥州の情況も変化を見せる。   その象徴が、稲村公方・足利滿貞(mitusada)の鎌倉帰還であろう。
滿貞と言へば、前述したように、鎌倉府による奥州支配のかなめとして、兄である滿兼の公方就任に伴って、滿直(mitutada)と共に南奥州に下向し、彼は稲村、そして満直は篠川に拠り所求めるのであるが、下向当初は滿貞が主な活動を行い、満直は補佐的な立場であったようだ、処が、例の上杉禅秀の乱を契機に、満直の方が圧倒する様になっており、北関東から南奥州にかけての京都扶持衆の取りまとめ役として、幕府と交渉を持っていたのは満直であった。
 
  それまで鎌倉府に忠実な滿貞の風下に立っていた満直が、幕府と結ぶ事によって、南奥州統制の実権を奪取した事になる。
滿貞の鎌倉下向も、野心を持った満直に、南奥州から追い落とされたというのが実情であろう・・・・。

連休の関係で更新が遅れました。・・・・・・次回へ     



**運慶小辞典

    鎌倉・永福寺薬師堂の運慶による造仏(推測)について述べてきました・・・・・・。 
〇  永福寺は建久三年(1192)に二階大堂、四年に阿弥陀堂、五年に薬師堂が建立されている。    では他の御堂はどうなのでしょうか、現在までの研究で、二階大堂には、釈迦如来坐像(丈六・2🅼40cm)の存在がが推定されています。  
 当然であるが、釈迦如来も両脇侍が伴って、釈迦三尊像として供養するのが通常であるのだが、これ以上の存在は解っていない。
〇  建久四年に出来上がった阿弥陀堂には、阿弥陀如来坐像(丈六・2🅼40cm)の存在が推定されているが、同じように阿弥陀三尊像以上の存在は不明である。 

〇  次に大倉薬師堂(現・覚園寺の前身寺院)の薬師三尊像や十二神将の戊神が、「吾妻鑑」 等によれば運慶が制作した安置像の一つで、北条義時を公暁の暗殺から救った霊験像である事に着目する。
  現・覚園寺は鎌倉末期、北条貞時の創建。 供養されている諸像の配置は変わらないが、場所も移動しており諸像も当時の像では無いようです。  しかし、運慶の製作した仏像が、霊験仏化する事例として重視されている。

平成30年戊戌・戊午・乙未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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