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室町幕府

2018.05.11(07:00) 147

**鎌倉府

**鎌倉公方─関東管領との関係

   四ヶ国を押さえ、内海の海上交通全体を政治的に掌握することは、当時の鎌倉公方にとっては、外様大名に対してだけの問題ではなく、鎌倉公方─関東管領体制という鎌倉府政権内の権力構造や関東分国支配の在り方にも極めて大きな意味を持っていた。
 乃ち公方権力の管領権力からの自立であり、管領・上杉氏主導の分国支配方式から、公方主導の分国主導方式へと転換する事である。

   それまでの公方と管領との関係は、管領・上杉氏が、公方の権威を背景に、上野・伊豆・武蔵・相模・安房・上総を中心に実力を養い、鎌倉公方は、その上杉氏の実力を盾に、前掲の六ヵ国に加えて他の分国、特に関東の伝統的雄族が蟠踞する常陸・下野・上総への影響力を強めるというもので、上杉氏主導の分国支配方式であった。

   その為公方─管領間の秩序関係が順調である場合は良いが、関係が悪化した場合は、上杉禅秀の乱のときの様に命さえ危険にさらされたのであり、公方持氏としても自己基盤の弱さを痛感したに違いない。

   そこで持氏は、禅秀の乱という一大危機を逆に大きな好機ととらえ、上野・伊豆という確固とした管領・上杉分国は除いて、それまで公方と上杉氏が錯綜した形で支配に臨んできた武蔵・相模・安房に加えて、禅秀の乱後に闕所国となった上総国のあわせて四ヵ国を公方の「御料国」 化する事によって、公方独自の基盤構築を目指したと考える。 

**将軍になりたかった公方

  室町幕府の将軍になりたかった鎌倉公方がいた。 
鶴岡八幡宮に血書の願文を奉納してその意思を表したのは、四代鎌倉公方の足利持氏であった。 
  将軍への野望は持氏に始まった事ではなく、父・滿兼、祖父・氏滿 からの野望であった。  事あらばと挑戦を試みるが、その度に管領の諫言によって阻止されている。
  持氏による京都扶持衆の討伐をめぐる京・鎌倉の対立は応永三十一年(1424)には終息した。  翌年には、一転して持氏は、四代室町将軍・足利義持の後継者となる環境を整備するべく、猶子となる事を望んで、京に使者を送る。   しかしその企ては、義持の門前払いで挫折するに至った。

   将軍・義持には実子が無く、後継の対象となる者は、出家している四人の弟となったが、義持の臨終の病床では後継者の決定は為されず、「宿老会議」 へ託された様だ。

*宿老会議メンバー

●  管領・畠山滿家、 斯波義敦、 細川持元、 山名時煕、 畠山滿則。   以上5名

    しかし、この宿老会議で決定することが出来ずに、義持の枕元に臨み、くじびきの話を持ち出し承諾を得たという。
そして義持が逝き、結果は、青蓮院・義円(gien)であった。(後の足利義教)  

そのような中、鎌倉の持氏が上洛するとの情報が京都に伝わった。     今回の将軍家後継者選びに不満であった持氏が兵を率いて上洛すると受け取られたはずである。  この持氏の上洛を思いとどまらせたのは、関東管領・上杉憲実(norizane)であった。  

    諫言だけでは効き目がないとみた憲実(norizane)は、新田氏が鎌倉に攻め上ってくると上野国(憲実の領国)から注進があったと持氏に言上した。   これに驚いた持氏は上洛を止めたという。  
新田氏挙兵が憲実の虚言であったこと、なおも憲実が持氏を諫言し続けたことは、京都に伝わっていた。  ここに鎌倉府における公方持氏と関東管領・憲実の考え方に隔たを垣間見る事が出来る。  将軍家に執拗に対抗する持氏、京都との関係が平穏無事にと考える憲実、この二人の溝は徐々に広がってゆくのである。
関東管領・上杉山之内家付近  (北鎌倉・明月院界隈) 
明月院・方丈
山之内・明月谷やぐら
明月院・やぐら
北鎌倉山之内・明月院(菖蒲園)
明月院・花ショウブ

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   **運慶小辞典

〇  永福寺(廃寺)諸堂の運慶・造仏供養は建久四年(1193)頃までには完成に至ったと推定されています。
〇  その後、奈良・東大寺の復興支援を積極的に行う源頼朝の推挙により、奈良仏師──康慶(koukei)の一門(慶派)に委ねられた。
〇  慶派(運慶)の起用には幕府(頼朝)の強力な後押しがあったと思われる。その起用には理由がありました。 八幡宮寺や永福寺の造仏を一手に引き受けた運慶は幕府仏師のようなもの、運慶に箔が付けば、運慶が東国に残した仏像の価値も上がるわけですから・・・・。
〇  運慶がまだ鎌倉で造仏を行っている頃、東大寺では中門の二天(持国・多聞)の造像が始まっていた。  持国天は定覚(jiyoukaku)が多聞天は快慶(kaikei)が担当、何れも像高二丈三尺(約7メートル)の巨像です。  (兵火により焼失)

平成30年戊戌・戊午・癸卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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