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室町幕府

2018.05.19(07:00) 149

**鎌倉府

 **永享の乱

   鎌倉府の持氏と幕府の義教という東西両主の厳しい冷戦も、永享八年(1436)、となるといよいよ一触即発の様相を呈し、それは、永享の乱へと展開していく。
鎌倉(関東)公方・足利持氏 供養塔     (鎌倉市・大町 別願寺)
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  永享十年(1438)6月、永享の乱の大きな要因ともなった若君元服事件が起こる。  この事件は、持氏の嫡子・賢王丸(kenoumaru)が元服の儀を迎えるに際し、その作法やしきたりに対し、憲実が厳しく諫言した事によるものであり、その還元とは次のようなものである。
鎌倉公方家の嫡子が元服する際には、まず、当代将軍の偏諱(henki)、つまりその名の一字を拝領すべく使者を上京させるのであるが、年来の将軍への対抗心から、公方・持氏はあえてそれを行わずに、将軍家の通字である「義」 を用いて義久と名付けた。

身の危険を感じていた憲実は上野へ退避していた。  しかし、持氏が憲実を討とうとするに至って、幕府は持氏討伐を決定する。 後花園天皇に治罰(tibatu)の綸旨と錦旗を要請し、駿河守護・今川憲忠・陸奥篠川御所・滿直らに出兵を命じた。    (永享の乱)

持氏出陣に際し、鎌倉の警固を託されたのは三浦時高(tokitaka)だが、時高は兵力に問題があるので辞退を申し出たが許されず、やむなく引き受けた。・・・・・・・この三浦氏の衰退が応永後期の相模守護改替にあった事と思われる。
  三浦氏は南北朝期以降代々相模守護に任じられていたが、持氏の時代に近臣・一色氏と交代している。  三浦氏は面目を失い反発していたのは確かであろう。 三浦時高は持氏出陣後一時鎌倉を放棄して三浦に退き、再度鎌倉に攻め入り火を放った。ここで持氏は鎌倉を失い、この合戦での敗戦を決意したと思われる。

   主だった鎌倉府の要職者に完全に見捨てられた存在となり、一旦は鎌倉に戻りまず浄智寺に入ったが、もはや鎌倉の主としての力は失っていた。  次に武蔵国・金沢称名寺に入る。 ここで持氏近臣の多くが切腹した、さらに鎌倉の永安寺に移って近臣二十数名と共に自害したという。
鎌倉・浄智寺山門   (鎌倉市・山之内)
浄智寺山門
武蔵・称名寺 山門&三門    (横浜市・金沢区六浦)
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  **運慶小辞典

**  大仏殿の大作群6体は残念ながら戦火によって焼失しているが、四天王についてはかなり具体的に像容を知る事ができる。 その姿を縮模した大仏殿様と呼ばれるタイプの四天王像が少なからず残っており、特に高野山・金剛峯寺の像がその雛形として制作された可能性は高いとされる。(10分の1サイズ)
**  大仏殿での仕事から程なく康慶(運慶・父)は世を去ったようだ。  間もなく運慶は建仁三年(1203)棟梁として定覚・快慶そして長子の湛慶(tankei)と共に南大門の金剛力士立像を造立。  完成後、後鳥羽院により東大寺供養が営まれ、運慶が法印、快慶が法橋に補任される。
**  康慶は既に亡く、院尊・法印(院派)は建久九年に、明円・法印(円派)もその翌年に没していました。  名実ともに運慶が第一人者である時代がやってきたのです。

〇  阿形像(agiyou) 836・3cm  木造・寄木造り   仏師─快慶      現存 (東大寺・南大門)
〇  吽形像(ungiyou)838・0cm  木造・寄木造り  仏師─定覚・湛慶   現存 (東大寺・南大門

  *慶派一門の総力を集め、製作開始からわずか69日で完成したと残される。 (10数名の小仏師が作業を分担した)

平成30年戊戌・戊午・辛亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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