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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.24(19:10) 15

*海のもののふ

*三浦水軍(続)

三浦一族の頼朝軍への到着が遅れているのは、海路を取った場合は波風に悩まされているか、或は陸路の場合は、近道を試みてかえって苦労しているためであろうというもので、挙兵に際して三浦一族の参軍に期待する事の大きかった頼朝の心境を代弁している記事である。    (吾妻鑑)
さらに、三浦氏が海路を船でやってくる可能性を記しているのは、「源平盛衰記」の記事と符合する。 そして300騎が分乗する船の数は、一隻当たり10騎として約30隻は必要となる。
次に水軍存在の傍証を、源平内乱最終戦である壇ノ浦海戦直前の三浦義澄の行動が「吾妻鑑」の文治元年(1185)3月22日条に、記されている。
義経が周防国大島の津で諸将を集めて作戦会議を催した際、義澄も参加していること、その時の義経の命で義澄は門司関から壇ノ浦奥津辺まで進出していることが知られるが、進出地点がいずれも海上交通に関係のある地点である事などから、この間の移動は全て船に依ったものと考えてよいでしょう。
三浦一族・関連地名 (庶子家名字の地)
三浦氏・諸氏家

三浦義澄(yosizumi)は本国を出発した時点で海路をとって西下したと考えられ、彼は単独ではなく相当数の兵船(水軍)と共に行動していたと考えても良いでしょう。
本国における一族の配置を見てみましょう。  三浦一族の主な者の配置を上記地図を参照しながら勧めます。   そのうちいくつかの家系は、海辺近くを本拠とし、それぞれ海城と云うべき要害を構えていたのである。
そもそも惣領家の衣笠城の位置も、現在は内陸になっているが、源平内乱の頃は現在の平作川が入江状になっていたので、城は西北辺近くに置かれた海城(kaijiyou)という見方も考えられる。
「源平盛衰記」の記事に三浦一族は衣笠城より出陣したような表現があり、城のすぐ東には義澄の弟十郎義連(yositura)の本拠・佐原城があった。  ここも入江部の西岸に位置し、近くの森崎辺は船着川(funatukikawa)と呼ばれていたし、城郭も佐原城をはじめ大矢部城(ooyabejiyou)・沼田城(nutajiyou)が連なっているところでもあり、これら諸城も海城と見ることが出来る。
一方、相模湾に面した半島西岸には、南から北へまず義明五男義秀(yosihide)が名字とする長井(nagai)があり、その近くの荒崎に城山がある。 さらに芦名・一色・鐙摺(abuzuri)、と沿岸部に連なり、規模は小さいとはいえ入江を持ち、それを見下ろすことのできる丘陵先端部に城館(jiyoukan)を構えていた。 中世初期には三浦氏の保有する舟船を、そうした海の要害地に分散、配置していた可能性があり、さらにそうした舟船の集積はとくに戦時に於いて数の増強が行われたものと想像される。源平内乱に於ける数度の海上戦に三浦水軍が加わった事を明らかにする確証はないが、たとえば壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏側として参戦した3000余りの船団の一翼を三浦水軍が担っていた可能性は十分にあると思われるが・・・・・。
次回に続く

丙申・庚子・庚戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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