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室町幕府

2018.05.27(07:00) 151

**鎌倉府

 **享徳の乱

    成氏はこの様な立場の不利を、武力をもって解決しようとした。  幕府が重用する上杉憲忠(noritada)は、成氏にとっては父持氏を死に至らしめた仇敵憲実の子であり、憲忠に対し恨みを持っていたという。  
成氏はその憲忠を西御門の屋敷に招き謀殺したのである。 享徳の乱の始まりである。

さて足利軍と上杉軍(山之内・扇ヶ谷連合軍)との戦いは神奈川・平塚辺りで始まった。  成氏は埼玉・熊谷に在陣したが、上杉軍に攻められ、古河に退陣、やがて古河を拠点とした。
 
   成氏と幕府との対立は長期化し、成氏は父持氏と同様に京都の改元を無視して抵抗を続けた。 成氏は乱勃発時の享徳年号を二十七年(文明十年・1478)まで使い続けたが、京都では「康生・長禄・寛正・文正・応仁・文明」 と改元された。

鎌倉を出てからの長い戦乱の中で、成氏が本拠としたのが下総国古河であった。  (古河公方)
  もはや成氏を鎌倉公方と認めないとした幕府は、新たに鎌倉公方を決めた。  将軍・義政の庶兄を還俗させて「関東主君} とした。 足利政知(masatomo)である。
  関東下向が決まった政知であったが、鎌倉に入る事が出来ず、伊豆国・堀越に留まった。 (堀越公方)

当時鎌倉は幕府軍今川氏の勢力下にあり、相模国は上杉氏の勢力下にあった。  諸勢力の利害得失が絡み合い、政知の鎌倉入りは実現しなかった。  上杉氏の中でも山之内家と扇ヶ谷家との確執が激しくなり、関東は混沌とした戦乱状態が続いた。

   文明十二年(1480)、成氏は、越後の上杉房定(fusasada)を仲介として幕府に和睦を申し入れた。  同十四年になって和睦が成り、関東九か国を支配下に置く事になり、一応関東の主と認められることになる。

   成氏は明応六年(1497)、64歳で死亡している。  成氏の後は彼の子孫(政氏─高基─晴氏─義氏)が古河公方を継承したが、小田原北条氏台頭後の公方の勢力は次第に衰え関東支配の諸将の争いに利用され義氏の死によって古河公方は消滅した。

地震のによる津波の為鎌倉・高徳院の大仏殿が倒壊する。  以後、大仏は露座になったと言われる。  この津波によって2,000人を越える死者を出したと伝わる。 (明応七年・1498)
 長谷・高徳院露座の大仏 (鎌倉市・長谷)    
鎌倉大仏
長谷・高徳院大仏殿疎石  (鎌倉市・長谷)
 大仏建屋礎石
   その後の鎌倉は主がないまま放置され荒れるにまかせ荒廃が進んでいた、このような状況の鎌倉を観た北条早雲は鎌倉の復興に乗り出した。

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  **運慶小辞典

 〇 建久七年(1196)、12月に東大寺大仏殿の巨像群を作り終えた運慶たちは、翌年から京都・東寺講堂の二十一体の群像の修理という仕事を開始します。  (詳細は別資料にて確認)
 〇 この修理事業と並行しながら、運慶工房の仏師たちは東寺・南大門の仁王像と中門の二天王像を新造しています。 
●東寺・南大門 阿行像 【サイズ不明  木造寄木造り(推定)】仏師─運慶工房 明治初年焼失(未再建)
●東寺・南大門 吽形像 【サイズ不明 木造寄木造り(推定】 仏師─運慶工房  明治初年焼失(未再建)
●東寺・中門 広目天像 【像種・サイズ・制作時期・造りは推定】仏師─運慶工房 明治初年焼失(未再建)
●東寺・中門 持国天像 【像種・サイズ・政策時期・造りは推定】仏師─運慶工房 明治初年焼失(未再建)

** 運慶には早くから仁王像制作のの名人との評判が高く、その根拠としての仁王像は東大寺・南大門の仁王ではなくむしろ、明治初年に焼失するまで京の入り口に毅立していた東寺の仁王(金剛力士)であった事に注目しています。


平成30年戊戌・戊午・己未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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