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室町幕府

2018.05.31(07:00) 152

**「戦国」の展開

 **京からやってきた男

   明応二年(1493)に伊勢新九郎(北条早雲)は、堀越公方の内紛に乗じて伊豆北部を制圧し、戦国大名化の一歩を印した。

   彼の出自については諸説があり、謎が多かったが、最近の研究で大分判ってきた。  この一族が北条を名乗るのは、二代目の氏綱が伊豆の北条(伊豆の国市)に本拠を置いてからの事で、初代は伊勢氏を称した。  それゆえ「伊勢宗瑞」という呼称が定着したようだが、子孫が「北条初代」と言っている以上、「北条早雲」で統一する。


    早雲は幕府の奉公衆であったが、姉(北川殿)が駿河守護今川義忠(yositada)に嫁いだ時に後見人として駿河に下り今川氏の家臣となった。
  文明八年(1476)に義忠が没し、今川氏の家督争いが起こった時に、子息氏親(ujitika)・(北川殿の子)の側に立って活躍した。 その功績で、駿河の所領が与えられ興国寺城(沼津市)の城主となった。

一方、伊豆の堀越公方足利政知は、享徳の乱の和睦の遺産として伊豆一国が与えられてその地位が保全されたが、延徳三年(1491)に没する。
政知の死後、その後継をめぐって紛争が発生、政知は末子を後継にと考えていたが、異母兄の茶々丸によって母と共に殺害された。
  駿河今川氏の有力家臣として駿河の興国寺城に拠していた北条早雲は、この抗争に付け込んで明応二年(1493)に伊豆の北部に侵攻し、茶々丸を南伊豆に押し出していった。  その後茶々丸は、伊豆・相模・武蔵・甲斐などを経て、山之内上杉顕定(akisada)等の支援を受け、早雲への対抗策を探った。

明応七年(1498)に鎌倉を大地震と津波が襲い大きな被害をもたらした。    (大仏殿倒壊)

 早雲は、被災した地域住民に食糧を提供するなど救済策を講じて味方に引付、茶々丸とその家臣関戸吉信を南伊豆の深根城(下田市)に討ち果たして伊豆全土を支配下に置いた。
 早雲とその子孫は伊豆を本拠地とし、さらに相模・武蔵に進出して戦国大名化の道を歩む事になる。

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   **運慶小辞典

  ** 京都・東寺南大門の金剛力士像(仁王像 阿形・吽形)は運慶工房の代表作であるとの評価を得ていが、残念ながら明治初年に焼失してしまった。 現存する奈良・東大寺の仁王像と大きさ・彩色等は同等もしくはそれ以上の出来栄えであったことが推定されている。

   〇 東寺の造像と前後して洛西・神護寺の中門に二天王と八夜叉の造像が始まったようだ。        
● 京都神護寺・中門  持国天(吽形) (二丈三尺(約7㍍)・木造寄木造り 仏師・運慶工房  消失(時期不明)再建 
● 京都神護寺・中門  増長天(阿形) (二丈三尺(約7㍍)・木造寄木造り 仏師・運慶工房  消失(時期不明)再建
● 神護寺・中門  八夜叉像(囲繞) (八鬼共・各約80㌢・木造彩色と推定) 仏師 運慶工房 消失(時期不明) 未再建

**東寺・神護寺での仕事には、共通のキーマンが居ます。 行慈(giyouji)・性我(siyouga)、そして彼らの師である文覚上人(mongaku)です。  伝説の荒法師で後白河院の怒りを買い、配流された伊豆で、同じく流人であった頼朝と出会い、頼朝挙兵後は京との連絡役を果たすなど協力関係を深め、やがては幕府の協力を得て復興事業を進めた。  なかでも東寺講堂での仏像修復作業は彼ら僧侶と仏師運慶一門の協力で完成、後世に残された。当然スポンサーは幕府(頼朝)である。 

平成30年戊戌・戊午‣癸亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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