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戦国時代

2018.06.04(07:00) 153

**戦国期の鎌倉

 **北条早雲・相模侵攻

   伊豆国から相模西部にに侵攻した北条早雲は、相模国で抗争していた扇ヶ谷上杉氏と山之内上杉氏との争乱に介入する形で、扇ヶ谷上杉定正(sadamasa)に味方して、山之内上杉と戦いつつ相模国へと侵攻した。   伊豆国に接する相模国西部の中心勢力は小田原城の大森氏頼(ujiyori)で、早雲とは同盟関係にあり、相模国侵攻を協働したようだ。
この地域には大森氏の他松田氏と河村氏が勢力を持っており、松田氏と河村氏は、ともに後には早雲の家臣となり、特に松田氏は北条氏の重臣として活躍する事になる。

北条早雲が小田原城を攻略して、相模国西郡を領有すると、古くから西郡の郷村を基盤として大森氏に仕えていた豪族たちは、大森氏と共に没落し、その多くはその地を去っていった。 早雲はこれら旧族の知行地を収公し、その多くを伊豆平定戦で活躍した家臣たちの知行として宛行った。

  小田原城は韮山城の支城となり、相模国への進撃の発信地となり、その周辺には信頼のおける家臣が配置されたのである。  その代表が松田氏であった。
松田氏は、鎌倉期から御家人として神奈川の松田町の地を本拠として活躍していた国衆であった。

**北条早雲・鎌倉へ進撃

   頼朝が幕府を置いた鎌倉は戦国期でも、全国有数の都市として存続していた。  小田原城周辺の相模国西郡を領有した早雲は永正六年(1509)頃には相模国を鎌倉方面に向かって東進していった。
扇ヶ谷上杉方の三浦郡を基盤とする三浦道寸(dousun)とも抗争に入っていた。 当時、津久井郡は道寸の勢力が強く及んだところで、相模川の中間部抑える岡崎城(伊勢原・平塚)を本拠地としていた。
その本拠地の高麗山要害・住吉要害を攻撃するも、上杉軍の反撃にあい敗走している。

   しかし、再び早雲の相模国進撃の機会が訪れた。  山之内上杉憲房と養子顕実とが抗争し始めた為、古河公方足利政氏にも内紛が起こり、これが両上杉の抗争に発展した。  ここに再び早雲に相模国東進を許す事になってしまったのである。
 早雲の最初の攻撃目標は、相模川流域を抑える岡崎城の三浦道寸であった。 激戦の末陥落させ、三浦道寸は鎌倉方面にに撤退し、逗子市との境の住吉城に本拠を移している。

   岡崎城の攻略に成功した北条早雲は、鎌倉方面に敗走する三浦道寸を追撃する勢いで鎌倉に入った。  鎌倉の周辺には、三浦道寸の勢力が残っていたし、三浦半島の突端の新井城(三浦市)には三浦義意(yosioki)が籠って三浦郡を領有していた。
  この時点での鎌倉領有は困難と判断、相模国東部への進出の足掛かりの拠点として、鎌倉の北に位置する玉縄城(鎌倉市・大船)を整備し、城主に北条氏時(早雲次男)をいれた。
玉縄城全景(想定図) (鎌倉市・大船城廻)
玉縄城全景
大手門(再建図)
大手門再建
玉縄城址・石塔
玉縄城址
玉縄北条氏・歴代供養塔  (龍宝寺・・・鎌倉市・植木)
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**運慶小辞典

 **文覚上人の側近恵眼房性我(siyouga)は、文覚の代理で頼朝にその父・義朝(yositomo)の遺骨を届けた僧侶だ、また鎌倉・勝長寿院や永福寺の初代別当に抜擢された事でも知られます。
東寺・神護寺の復興事業が頼朝(鎌倉幕府)の資金援助で進められたのは、文覚・性我・行慈等の僧侶と大仏師・運慶との協働によって行われ引き継がれたのであるが残念ながら大半は消失している。
 〇 神護寺略記・講堂条・・・・中尊三体造立の事
● 神護寺・講堂  金色大日如来 【丈六(約2・4㍍金色木造寄木造り】 仏師─運慶法印   消失時期不明  未再建
● 神護寺・講堂  金剛薩埵菩薩 【半丈六(約1・2㍍金色木造寄木造り】 仏師─運慶法印 消失時期不明  未再建 
● 神護寺・講堂  彩色不動明王 【半丈六(約1・2㍍彩色木造寄木造り】 仏師─運慶法印 消失時期不明  未再建
   
 **京都・東寺や神護寺の復興事業にあたって性我・運慶は仏師たちを引き連れ奈良・元興寺などに出向き、典拠となる二天王像や八夜叉像などの調査を行い、こうした霊験像のレプリカ制作はそれに携わる仏師をも霊験化する効果が期待されていたようです。

平成30年戊戌・己未‣丁卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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